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私は凶器を使っているので

包丁を手に取らない日はない。

にんじんの皮をむく。
じゃがいもの芽をとる。
ねぎを刻む。
パンをスライスする。

まるで自分の手の代わりのように動かして、あらゆるものを切っていく。
私の毎日における、一つの「当たり前」。
そして、台所仕事をする全ての人にとっての「当たり前」でもあると思う。

だけど、使い終わったそれを洗うとき。
私はいつだって、心臓の背中側の方に、ひやっと冷たいものがくっついたかのような感覚を味わう。

泡をいっぱいに含んだスポンジで鋭利な刃を包み込み、汚れをこそげ落とすように上下に動かしながら、頭の中ではいつも同じことを考えている。

「ちょっとでも力加減を間違えたら、手が切れるな」

だから私はできる限り素早くその作業を終えて、水切りもそこそこに、かごの中に包丁を放り込む。
以前、松浦弥太郎さんの著書の中で「包丁の柄を洗ったことがないことに気が付き、洗ってみたが、刃を持って柄を洗うのがとても怖かった」というような文があったのを覚えている。
その通りだと思う。
私も、包丁の柄など洗ってみたことがない。

***

軽自動車の重さを調べてみたら、Googleがわざわざ車種別にその重量を教えてくれた。
平均すると約900キロだった。
仮に100キロの人が載っているとすると、総重量は1トンを超える。
どこが「軽」なのだろうと思ってしまう。

そしてこの国のあちこちでは、そんな「軽」よりもよほど重たい鉄の塊たちが、時速数十キロというスピードで、生身の人間の横を通りぬけていくのだ。

猛スピードで動く900キロの鉄の塊が、凶器でなくて何なのだろう。

***

私は車を運転しない。免許も持っていない。

そんな人間がつぶやく言葉など、「運転しなければならない」事情を持つ人々から見たら、何も知らない身勝手な言葉に聞こえるだろうか。
車が「凶器」だなんてと怒られるだろうか。

けれど私は毎日包丁を使う。

それは人を刺し、命を奪うこともできる。
凶器だ。

私はあなたと同じ、毎日凶器を使う人間だ。

***

その鋭利な刃で、肉や野菜や魚を毎日毎日切っているから、私はときどきそれが人すらも殺せてしまう道具だということを忘れそうになる。
ぼうっとした頭のまま固いものを切ろうとして刃を滑らせてしまったり、まな板の上にぞんざいに投げ出したり――。

だから、使い終わりにそれを洗うのは、儀式に近い。
「これは凶器だ」
ということを、自分に思い出させるための儀式。

余談だが、警察官をしている知人は、所属している部署が部署のため、毎日拳銃を携帯しているのだという。
彼らは毎朝、上長の号令に従って銃に弾を込め、終業時には再度号令に従い弾を抜く。毎朝毎夕、ただただ同じことを繰り返す。
彼らが拳銃を、本来の使用目的で使うことはほぼない。本来の目的を失った銃は、毎日、腰にぶらさげているだけの「道具」になりえてしまう。
毎朝毎夕の号令は、危険な「武器」を、ただの道具にしないための儀式なのだろう(もちろん、安全な保管のためでもあるだろうけれど)。

***

車にとっての、運転者にとっての儀式はなんだろう。
数年に一回の免許の更新がそれだとしたら、あまりにも恐ろしすぎる。

乗らないで、とは言わない(もちろん、年齢を重ねた人は、自分の能力を確認してほしい、とは思う)。ただ、毎日使うそれが凶器だということを忘れないでほしいのだ。

無自覚な運転は、無防備に持つ拳銃に等しい。

一人でも多くの人が、その弾に倒れることがないように。

私も毎日、包丁を洗おう。

サポートをご検討いただきありがとうございます! 主に息子のミルク代になります……笑。