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こぼれ落ちる手前の景色

どうしたらそこにたどり着くのか、

実はよく分かっていないのだけど、たまに絶妙なバランスでたどり着いてしまう場所がある。

今まで二度、訪れたことがある。行ったことがあるのに分からないというのは、なんだか少し豊かな気がする。生きている甲斐がある、というか。

日々それなりに生きていると、知らず心に降り積もるものがある。じわじわ蝕まれることもあれば、一度に多くを引き受けることもある。そうやって少しずつ心の容量が食われていく。適度に吐き出して容量を空けるか、時折、うっかり容量オーバーするか。溢れたり収まったりしながら、日々は健全に過ぎていく。

ただごく稀に、どちらでもない状態が訪れる。

表面張力みたいに「耐えてしまう」のだ。
そのひと時、わたしは自分のすべての感情が手放された感覚になる。手放すというより、手放される感覚。半強制的に、シャットダウンされる。それはとても心許ないのだけど、同時に、なぜか少し安心もする。これ以上の負荷を負わない安心感。

手放したからといって、感覚が鈍化するわけじゃない。むしろ、繊細になりすぎているから閉じただけ。そこには薄皮一枚に包まれた、いや、もしかすると地肌の見えた、裸の心が投げ出されている。

投げ出された心とわたしは、「どうすればいいか分からない」。機能が停止しているから、掛けられる言葉、あらゆる情報に何にも反応することができない。嬉しいも、悲しいも、ムカつくも、わからなくなる。裸の心の前では、すべての判断が留保される。頼りないわたしがとれるのは、心に波風を立てる対象への無関心な態度と、心の動きに対する「判断不可」の判定だけだ。例えるなら、無味な飴玉を舌で転がしている感覚。吐き出すことも噛み砕くことも、味わうこともできないまま、感情になり損ねた何かを持て余す。不味くも美味しくもない。コロコロ、コロコロ。ゆっくりゆっくり、何でもないものとして消化する。

ほんの少し刺激が加わった瞬間に、心が溢れてしまう。溢れてみたら分かるけど、溢れたってそれはそれでいいのだ。今までだって、何度も溢れた。なのに、ついぎりぎりまでその状態を守ってしまう。何も感じないように、少しでも長く心が生きながらえるように、すべての感覚を削ぎ落として静かに息をする。ただ自分が繊細であることだけを感じる、あの時間。仕事はすべて外側を上滑りしていくように過ぎ、家に帰ったら何も考えず眠る。

溢れたら、おそらく悲しみや苦しみが押し寄せる。少し減ったら、安らかさや前向きさが生まれる。どちらにもなりきれない、こぼれ落ちる手前にその景色がある。

感情と感情の狭間にある、空白地帯。
わたしは、気づくとここに佇んでいる。静かに、自分でも気がつかないくらい静かに、途方に暮れている。剥き出しの心を抱えて、コロコロと飴玉を転がしながら。



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