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捨てられない「べき」は、捨てずに大事にもっておこう。

「"べき論"は良くない」と至る所で言われるようになっています。

「成績優秀であるべき」「親には従うべき」など世間や誰かの押し付けにより、その人らしさが阻害されてしまうから。

でも、ちょっと立ち止まって考えたいのです。
「べき」は悪影響を及ぼすだけなのでしょうか。

「べき」の弊害

わたしも就活を機に自分のいろんな「べき」に気づきました。

「優秀であるべき」「女子らしくあるべき」「明るくあるべき」「迷惑をかけてはいけない」などなど。

それらを剥がそうとしたり、薄めようとしたり、長期戦を覚悟したり、さまざま対処をしてきました。

23年間囚われてきた「べき」なので、ベリッと綺麗に剥がれないものもあります。

少しずつ「べき」によって苦しむ自分を客観的に見られたお陰で、はるかに生きやすくなった面もありました。

「べき」を捨てすぎる弊害

しかし、「べき」をぽいぽい捨てていくうちに、不安な気持ちを感じるようになりました。

何かを言ったり進めたりする原動力が弱っていく感覚。

「べき」を捨てると、「こうありたい」「やりたい」が少しずつ見えてきます。
しかし、それが自分の中で「こうするべき」に変わると、また捨てなきゃと思うようになりました。

知らずわたしの中に根付いた

「べきに囚われてはいけない」

という「べき」が発動するようになったのです。

人に対して何か言うときも、「べきを押し付けてはいけない」という「べき」に支配されるようになりました。 

捨てたくない、大事にしたいものなのに、
「べき」だから処理しなければならない気持ちになってしまう。

「べき」を捨てすぎると、それはそれでストレスになるようです。

捨てられない「べき」は、あなたの「信念」

先日のイベントで、Dr.ゆうすけさんが興味深い発言をしていらっしゃいました。

多い人だと400個くらい「べき」があるんです。
それを、3ヶ月で3個にしてくださいと言ってみることもあります。
それでも捨てられない「べき」が信念なんです。

どうしても捨てられない、捨てたくない「べき」は、自分の大事な信念。

これはとても腑に落ちる言葉でした。 

信念なのだから、捨てられません。
捨てる方がかえってストレスになります。

わたしの場合、捨てられない「べき」は

・「ありがとう」と「ごめんなさい」をちゃんと伝えるべき
・人を大事にする努力をすべき
・素直であるべき
・フラットな見方であるべき

などです。
これらは、わたしにとっては守りたい「信念」だったのです。

捨ててしまったら、わたしらしい生き方はできません。
無理に全て捨てる必要はないのです。

「べき」がその人らしさを阻害してしまう側面は、否定できません。

しかし過剰な「べき」の断捨離は、自分の大事な価値観を見失う要因にもなり得ます。

自分が捨てられない「べき」は何だろう?

立ち止まって考える時間があってもいいかもしれません。

わたしも、捨てられない「べき」を見つけたら大事にもっておこうと思います。きっと信念につながるものだから。

みなさんも、捨てられない「べき」を大事にしていきましょうね。

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