認証バナナ


昼時に腹を空かせていた私は、空腹を覚える暇のある己の肉体に嫌悪の念を抱きながらも、その空洞を埋めるべく、飯どころを探していた。

ホテルの周りをぐるりと散策してみたところで、その土地の雰囲気がにわかにわかり始めた。
煙草の臭いが二区画先まで漏れ出ているパチンコ屋、道の真ん中で煙草を燻らす若者、覚束ない足取りの中年男性、虚な目をした者達、吸い殻や空き缶でいっぱいになった溝、そのひとつひとつが味気の無い街に、装飾を施しているようであった。

その街は既に殆どの色彩を失っており、空気は倦怠と憤怒と静寂で酷く混濁していた。
時折プリズムが光るように見えたのは、遥か遠くで輝く太陽が、油分で濁り切った誰かの虹色の眼球に反射したものであった。
そして彼らは既にどこも見てはいなかった。

モノクロームの路地を歩いていると、不意に看板が現れた。
それは決して文章上の表現ではなく、実際の出来事として、突如として目の前に姿を現したのである。
その看板はその店が喫茶店である事を表していたが、それ以上の事は何もわからなかった。
気づいた時には、つま先の方から扉の中へ吸い込まれ始めていた。


「いらっしゃいませ」

と愛想の良く言ったのは、恰幅のよい中年の店主で、一人で店を切り盛りしているようであった。
店内はカウンター数席と、テーブルが四席で、決して広くはなかったが、かといって狭いわけでもなく、もしそれ以上広くても具合が悪いようにも思えた。
兎に角、無駄なく的確な広さなのであった。
私はテーブル席に座っていた中年夫婦のひとつ隣の席に腰掛けた。


メニューを開くと、ランチメニューの欄があり、スパゲティミートソースのセットと、カレーのセットがあった。
私はスパゲティミートソースを食べたくなった。

壁にかけられた古い時計は十一時五十三分を示していたが、ランチメニューは十二時からとなっていた。
しかしながら、こういった個人経営の喫茶店においては、七分くらいなら融通してくれるだろうと、私は店主に声をかけた。

「ランチメニューはできますかな」
私が尋ねると、店主は入店してきた時に見せた愛想の良い表情をうかべたまま、

「できません」

きっぱりとそう言った。
そして、「まだ十二時ではないので」と付け加えた。
そしてその顔は依然としてにこやかであった。


その一瞬の出来事の中で、幾つかの情報が殆ど同時に流れ込んできた為、私の頭は一時混線しダウンしてしまった。
目の前が真っ暗になり、そのまま卒倒してしまいそうになったが、すんでのところでシナプス間の信号が復旧し、意識を取り戻した。


そして私の胸に真っ先に浮かんだ気持ちは、「あと七分なのだから融通を聞かせてくれてもよいではないか」という事なのであった。
無論、ひとりを特別扱いする事で、他の客に対する示しがつかなくなるという事もあるかもしれないが、先にいた老夫婦は既に注文を済ませており、そろそろ帰ろうかという頃合いであったので、その線は薄いと思われた。
また、お米や釜湯が十二時にならないと仕上がらないのかと思えば、それらは単品でなら注文できることから、これも違うようであった。
では何か。

そうなると、理由は一つしか見当たらない。
私が店主に声をかけた時の「すみません(実際にはすんません)」の発音から、私が他所の土地のものである事を悟った店主は、初めての余所者に好き勝手されては困るという事で、土地の人間よりも手厳しく接してきたという事に違いなかった。

そうであるならば、私がランチメニューについて尋ねた際に、「できない」という言葉に反して、にこやかな表情を浮かべていた事も説明がつく。
大抵の場合、客に断りをする場合、どこか申し訳なさそうにするというのが、この国の接客における定石であるのだが、そんなそぶりを一切見せないその姿勢こそが、「よそ者が図に載るな」というメッセージなのであった。

ぐぬぬ。


此処でひいては男が廃る。
そう思った私は、
「では七分後にまた改めて注文させてもらいましょう」
という言葉が喉元まででかかった。
実際には「でゅぇっ@&/☆0……」と言った具合で漏れ出ていた可能性はあるが、なんとか踏みとどまった。

ランチメニューで注文すれば、珈琲がついて750円。
単品のスパゲティと珈琲の単品を注文すれば1200円であった。
その差450円。
それは決して安い金額ではなかったが、450円の為に難癖をつける事こそ、男らしくないように思われた。
ひいては、矢張り関西人はケチな人種だという誤った認識を植え付けることにも繋がりかねなかった。
郷に入っては郷に従え、ローマではローマ人のするようにせよ、私は大人しく店主に従うことにした。
私はスパゲティミートソースと珈琲を単品で注文すると、店主はにこやかに「かしこまりました」と言って厨房へと去っていった。


スパゲティミートソースが私の目の前に運ばれてきた時、時刻は十二時十分であった。
私はそれをぺろりと胃袋へ放り込んだ。
胃袋が喜びの舞を踊り始めたので、私は自らの腹部を殴打し沈黙させた。
そこへ店主は食後の珈琲を運んできた。

「もしよければ」
そう言って店主はバナナを一本置いていった。
それは店主からの承認の証であった。
私はこの店に受け入れられたのである。
矢張りあの時、大人しく引き下がったことが功を奏したのであった。
珈琲を胃袋に流し込んだ私は、胃が躍り始める前に自らの腹部を殴打し、覚束ない足取りで勘定を済ませた。

「ごちそうさんです」
そう言って私は店を出た。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?