イエス・キリストの物語【クリスチャンは聖書をこう読んでいる #1】テキスト版

聖書にはこんなことが書いてあって、それをクリスチャンはこういうふうに読んでるということを、聖書やキリスト教にあまりなじみがない方むけに語っていききます。
語っているのは牧師でもなければ、神父様でも司祭様でもない、聖書や宗教学の学者でもない、ただのクリスチャンです。クリスチャンを代表する者でもなく、キリスト教の統一見解を語るのでもありません。
浅いやつが浅いことやってるだけなので、ゆるく見ていただければと思います。
今回の内容の動画版もあります↓

聖書の中の、新約聖書パートの、第1巻「マタイによる福音書」を読んでいきますが、その前にいろいろ説明が必要だと思います。

メシア?キリスト?

まず、このチャンネルではメシアといったりキリストと言ったりすると思いますが、これ、同じことです。
ヘブライ語でメシア。
ギリシャ語でキリスト。
日本語だと救世主。救世主って、キリストのことなんです。「世を救う」と書いて「救世」。野球などで、自分のチームだけを救った選手を「救世主」と呼ぶのは、スケールがあってないというか。
クリスチャン的には、日本の野球って「チームの救世主」とか「プロの洗礼」とか、キリスト教が好きなのかな、と。「十字架を背負って」と言いたがるところとか。

でもたぶん、アメリカの野球界では「ショーヘイ・オオタニは、ヒデオ・ノモのような救世主だ」とか言わないですよね。
もしかしたら小文字でsaviorと呼ぶかもしれないけど、それを救世主と訳したら誤訳なんじゃないかな。
大文字でSaviorだったら救世主だけど、キリスト教国で人間を大文字Saviorと呼ぶんでしょうか。詳しい人、コメントください。

話を戻します。

旧約と新約

キリスト教はユダヤ教から生まれました。キリスト教は最初はユダヤ教の中のひとつのグループだったし、12使徒などのイエスの弟子たちもユダヤ教をやめてキリスト教になったわけではないんですね。キリストと呼ばれたイエスも、ユダヤ教の戒律をすべて守っていました。

で、キリスト教でいう聖書というのは、ユダヤ教の聖典にキリスト教の新約聖書を加えたものです。
聖書の、旧約パート39巻が、ユダヤ教から受け継いだ文書。これに新約パート27巻を加えた、合計66巻が「キリスト教で共有されている聖書」になってるわけです。

旧約は「旧契約」つまり「古い契約」という意味で、ごくカンタンにいうと「神が人類にメシアを与える」という約束が書かれている。
新約は「新契約」つまり「新しい約束」という意味で、ざっくり言うと「イエスがそのメシアだ、キリストだ」ということと、「そのメシアによって神が人類に約束したこと」が書かれている。

だから旧約は「キリスト登場より前」、新約は「キリスト登場とその後」というわけです。

第二聖典(旧約続編)

ところで、先ほど「66巻が、キリスト教で共有されている聖書」という言い方をしましたが。

ほかに、キリスト教で「第二聖典」とか「旧約続編」と呼んでいる、ユダヤ教から受け継いだ文書もあるんです。ただこれらについては、キリスト教の中でも「これらも聖書だ」とする教会と、「これらは重要な文書だが、聖書の正典とは呼べない」という教会とに、意見にわかれてるんです。
ただ、これについて話すと少し長くなるし、この企画では新約パートを読んでいくので、第二聖典のことはいったん置いておきます。

旧約もオススメ

本当は、どうせ聖書を読むなら旧約聖書から読んだ方がいいんですね。

旧約を後回しにして新約から読むというのは、ベートーベンの第九を聴くのに、第1から第3楽章を後回しにして第4楽章から聞くようなもの。
第九は、合唱で有名な第四楽章だけでも楽しめますが、でも第1楽章から第3楽章までがあった上で、それを第4楽章で「ちがう!こんな響きではない!もっとすばらしい音楽を」っていうちゃぶ台返しがおもしろかったりするんですね。そういうストーリー構成になってる。

新約聖書も、それだけ読んでも全然いいし、この企画でも新約聖書から読んでいくけど、新約聖書、特にマタイによる福音書なんかは「読者は旧約聖書のことわかってるよね」という前提で書かれてるところもある。

なので、もし旧約パートが入ってる聖書を持ってる方は、ぜひ旧約パートにも挑戦してみてほしいです。
実はクリスチャンも、全員が、旧約聖書のはじめから新約聖書の最後までを読み通しているわけでもないのですが。

マタイ"による"

で、新約聖書27巻のうちの冒頭にあるのが、マタイによる福音書です。
「マタイによる」というのは、「マタイによって生み出された」という意味ではなくて、「マタイによって伝えられた」という意味です。
明治大正のころの邦訳聖書では、「マタイ伝福音書」というタイトルでした。この「伝」が大事なんですよね。
「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで」ってテレビ番組を、「あらへんで」を省略して「ガキの使い」って呼んだら、意味が全然違っちゃいますよね。それと同じで、新約聖書の第1巻は、「マタイ伝福音書」の「伝」が重要。「マタイによって伝えられた、(イエス・キリストの)福音についての書」なんです。

じゃあマタイは誰に何を伝えようとしたのか。

聖書をただの古典として読むこともできるけれど、キリスト教では、聖書は神からすべての人へのメッセージだという受け取り方をします。でも一方で、聖書の中のそれぞの文書には、最初の読者にあてて書かれました。
たとえば「ルカによる福音書」は冒頭に、「これはテオフィロ様あてのキリスト教についての調査報告です」ということが書いてある。それをキリスト教では「テオフィロ様あてにルカが書いたこの文書は、すべての人(自分を含めて)への神からのメッセージ」と思って読んでるわけです。

じゃあ「マタイによる福音書」は誰宛てに書かれたのかというと、読者が旧約聖書を知ってることが前提になってるところがあるので、ユダヤ人に「イエスがメシア」と伝えるために書かれたと考えられます。
日本人だったら桃太郎のことは大体知ってるよねというくらい、ユダヤ人だったら旧約聖書のことは知ってるのだけど、そうした「旧約聖書に何が書いてあるかを知ってる人」むけになっている。

1章1節

それが端的に出ているのが最初の一文、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」です。ようやく聖書の本文に入ります。

「子」というのは、聖書では「子孫」という意味でもよく使われます。マタイは「アブラハムの子孫であるダビデの子孫であるイエス、すなわちキリストの系図」と書いているわけです。
キリスト(メシア)は、
アブラハムの子孫であるイスラエル12部族の中の、
ユダ族の中の、
ダビデ王の家系から登場してくる、
ということが旧約聖書で預言されています。マタイは「このイエスこそ、預言されていたとおりアブラハムの子孫のダビデの子孫だ。預言されていたキリスト、メシアだ」と言いたいわけです。

系図とは

で、この冒頭の一文でぼくが一番重要だと思うのは、「系図」という言葉です。
ユダヤのヘブライ語で、日本語で「系図」と訳される言葉は、「物語」という意味もあるんです。ヘブライ語で書かれている旧約聖書では、同じ単語が場面によって「系図」と訳されたり「物語」と訳されたりしてる。新約聖書はギリシャ語写本から日本語に訳されているけれど、ユダヤ人の感覚として「系図」と「物語」は同じなんですね。

そうすると、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」というのは、次の行からイエスの系図ですよという前フリかもしれないけれど(この系図は次回読みます)、それ以上にこの文書の全体が「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの物語」だよという、この文書のタイトルとしての意味があるんだろうな、と思うわけです。

次回、アブラハムからイエスに至る系図を読みます。読み手の読む気を失わせる、耳慣れないカタカナ人名の羅列なのだけど、クリスチャン的にはけっこうおもしろいんです。

この内容はあくまで私、布忠という一人のキリスト信者が聖書をこう読んでいるというものです。浅いやつが浅いこと語ってる自覚はあるので、キリスト教を代表するものではないし、これが正統的というつもりもないことをご理解ください。

では。
あなたと、あなたの大切な人たちに、神様のご加護がありますように。

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