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イエスとヨハネ、どっちがどっちにバプテスマを授ける?【クリスチャンは聖書をこう読んでいる #9】テキスト版

布忠がお届けする、「でもクリ×聖書」第9回です。

第9回にして、ちょっと気になってることがあるんですが。
このラジオは、聖書になじみがない方に向けて「聖書ってこんな感じだよ、クリスチャンてこんな感じだよ」とやってるのだけど。
このラジオをクリスチャンに聞かれたら、ぼくのレベルの低さをさらしてることになるんだろうなと。
いや、それは承知で始めたんですよ。承知の上で、牧師さんとか教会がやってるチャンネルもあるけれど「ただのクリスチャン」がこういうのをやるってことにもきっと少しは意味があると思って始めたのだけど。
でも「この程度の浅い知識と聖書理解で、よくもまあこんなこと始めたな、たいした神経だ」とか思われるんだろうなあ、と。

そんな、不勉強な「ただのクリスチャン」が聖書をこう読んでるという話、今回はマタイによる福音書3章13節からです。
Youtubeに動画版もあげています。"ながら聞き"できるように語ってるつもりなので、そちらもどうぞ。

今回のあらすじ

あらすじとしては、大人になったイエスが登場して、前回登場したバプテスマのヨハネのところにきてバプテスマをうけようとします。
ところがヨハネの方では、自分が待ち望んでいたメシアがこのイエスだと悟って「私こそ、あなかたからバプテスマを受けるべき」というんですね。
それをイエスが押し切って、ヨハネがイエスにバプテスマを授ける。すると「キリスト・イエス」のところに「聖霊」「父なる神」が顕現して、三位一体がそろいぶみ、という回です。

ヨハネとイエス

ぼくにとってイエスは「イエス様」なんです。
物心つく前から教会に行ってたこともあって。ただ、これはぼくとイエスの関係性のことだし、このラジオを聞いてくれる方はひいちゃうかなと思ってここでは「様」をつけないように意識してるけど。

で、バプテスマのヨハネにとってイエスは「イエスくん」でした。
ヨハネとイエスは母同士が親類だから。何親等かわかりませんが、親戚で年の近い男の子どうしなんですね。
ところがこの日、ヨハネは気づいてしまったわけです。「イエスくんが、私の待ち望んでいたメシアだったのか。ユダヤ同朋が千年を超えて待ち望んでいたメシアは、あなただったのか」って。
そこでヨハネは、イエスくんから、いやメシアからバプテスマをうけたいと思った。
なのにイエスがヨハネからバプテスマを受けたい、と言い出したわけです。

ヨハネのバプテスマ

ヨハネが授けていたバプテスマ、洗礼というのは、罪を悔い改めるためのものでした。悔い改めというのは、「自分は罪を犯してしまう存在だ」ということを認めて、「罪を離れた生き方になるぞ」と方向転換することです。
そしてヨハネは、来たるべきメシアについて、このように教えていました。

私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がして差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。(3章11節)

「聖霊と火でバプテスマを授ける」なんてことは人間にはできません。ヨハネが、メシアが神だということまで理解していたかはわかりませんが、メシアが人間を超越した存在だとはわかっていたようです。
それでヨハネは、イエスにバプテスマを授けることを拒否しようとし続けるんですね。こう書いてあります。

ヨハネは…言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」
しかしイエスは答えられた。「今はそうさせてほしい(ヨハネからバプテスマを受けさせてほしい)。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」
そこでヨハネは言われたとおりにした。
(マタイ3章14節-15節)

ヨハネのバプテスマの意味

じゃあ、イエスはなぜ、ヨハネからバプテスマを受ける必要があったのか。なぜそうすることが正しいことなのか。
これがぼくには、はっきりとはわかりません。牧師の説教などで今まで何度か説明を聞いたのだけど、すっきり「わかった」と思ったことはないような気がします。

ただ、ですね。ヨハネが人々に授けていたのは罪をゆるされるための「悔い改めのバプテスマ」ですが、イエスがヨハネから受けるバプテスマはそうじゃないんですね。
神であるキリストが降臨して人と同じ立場に立ったということが聖書には書かれてますが、ただしイエスは罪がない存在だったので悔い改める必要がないんです(聖書をお持ちの方は、ヘブライ人への手紙4章14節を参照)。

「人々がヨハネから受けたバプテスマ」と「イエスがヨハネから受けるバプテスマ」は、別物ということです。
前回、聖書には洗礼が3種類あったと紹介したけれど、イエスが受けるバプテスマだけは3つのどれにも該当しない。

「ヨハネがイエスにバプテスマを授けたのだから、ヨハネの方が格上か」という読み方もあります。
それを否定するためにイエスの権威を守ろうとして、ヨハネがイエスを格上に見てるかのように書いているんだ、という読み方もあります。
でもこれは違うと、ぼくは思うんですね。なぜかというと、当事者のヨハネ自身が事態の意味をわかってないからです。
ヨハネ、納得した様子がないですよね。メシアに「こうするのが正しいんだ。その正しさが私とあなたにふさわしいんだ」って言われて、そのとおりにしただけです。「おっしゃる意味はわかりませんが、あなたが正しいことだというなら」という感じですよね。

バプテスマを授けたヨハネが意味をわかっていないのだから、ヨハネが格上だとかイエスがヨハネの弟子になったということではないんですね。「授ける」と訳すのが問題なのか。
布忠がバプテスマを受けたのも、バプテスマを授けてくれた牧師の弟子になったということではないし、それでその牧師が布忠の格上だと格付けされたわけでもない。今もその牧師のことは心から尊敬していますが。

じゃあイエスが受けたバプテスマはどういう意味だったのか、というのはぼくにはまだわかりません。ただ、それは確かに「正しいこと」で、ヨハネとイエスに「ふさわしいこと」でした。

洗礼のお作法

押し切られるようにヨハネはイエスにバプテスマを授けたわけですが。
この場面を描いた宗教画として、ヴェロッキオとダヴィンチが合作した「キリストの洗礼」なんかが有名ですね。

ヴェロッキオ&ダヴィンチ「キリストの洗礼」

キリスト教の宗教画で「十字架のかたちの杖を持ってる人物」がいたら、それはバプテスマのヨハネです。
この絵でヨハネがイエスの頭に水をそそいでいるのは、バプテスマのやり方の中でも「滴礼」と呼ばれるスタイルです。布忠も滴礼でバプテスマを受けました。

ただこの絵って、おかしいですよね。
ヨルダン川まで来て、二人とも足首くらいまで川の水に浸かって、イエスは腰布一枚という姿で。ヨルダン川にざぶんと行くかと思ったら頭にちょろっと水をかけるだけって。
実際には頭のてっぺんまで水に沈める「浸礼」だったはず。バプテスマという言葉が、ギリシャ語で「沈める」という言葉に由来するくらいです。
今も「せっかくバプテスマを受けるならヨルダン川で」と世界中から入信希望者がヨルダン川を訪れますが、大人が頭まで沈めるくらいの深さはあります。渇水期でもこの絵よりは水があると思うのだけど。

三位一体そろいぶみ

ヴェロッキオの絵では空に鳩、その上に手が描かれていますね。マタイはこう書いています。

イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊がハトのようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(3章16節)

このラジオでは新改訳2017という翻訳を使ってますが、引用しようとすると「わたし」と「私」を使い分けてるのがめんどくさい!ヨハネとか人間の一人称は漢字の「私」で、イエスとか神の一人称はひらがなの「わたし」になってるみたいです。
聖書協会共同訳というのでも、「兄弟」と「きょうだい」を使い分けるとかやってるのだけど。
日本語は同音異義語が多いのに、使い分けたいなら違う言葉にしてくれないと。同じ言葉を漢字かひらがなかで使い分けるなんて、発行側の都合であって読み手には迷惑ですよね。
テキスト検索するときも不便だし。朗読を聞いても違いはわからないし。点字聖書ではどうしてるのかな。

目に見えない存在

この絵で鳩は聖霊を、手は父なる神をあらわしていて、イエスはキリストという神です。三位一体の、父と子と聖霊が勢ぞろいしてる場面なんですね。ヨハネとイエスが「正しいこと」を実現したからなのでしょう。

ただ実際は、聖霊は人間には見えていませんでした。「イエスは…ご覧になった」と書いてあって、キリスト・イエスだけが見たんですね。それも、降って来る様子を「鳩のように」とたとえただけで、鳩の姿が見えたわけではない。

まあでも、聖霊を芸術にあらわすなら、この記述から鳩の姿で描くのが妥当でしょう。

神道でも神々は目に見えない存在ですね。御神体や御神木と呼ばれるものは「神々がやどるもの」「そこに神々がくだってくる場」でしかない。それで「春日鹿曼荼羅」のように、鹿の背中に榊の枝が一本立ってる姿を描いて、目に見えない神様を榊の枝で表現したりする。

春日鹿曼荼羅

仏教もですね。
教会は偶像を「見ることも、聞くことも、歩くこともできないもの」と言うけれど(黙示録9章20節)、もしクリスチャンがお寺で仏像を指してそんなことを言ったとしたら、きっとこう返されるんじゃないかと。
「ええ、そうですよ。これは仏様の姿をあらわしているもので、仏様自身ではありません。キリスト教のイコンも同じですよね」。
法然上人がご臨終の間際に、仏像を拒否してお念仏への信頼をつらぬいたのも有名ですね。

クリスチャンはどうも、他の宗教の人をかなり見くだしますよね。「教会」とか「伝道」って言葉も、「まことの神を知らない無知で愚かな者たちに、我々が"道"というものを"教えて"やらねば」ってのを前面に出しちゃってるし。「啓蒙」と同じくらい、上から目線で無礼な言葉だなと。
日本で布教が進まないのはそういうところだぞ、と思っちゃうのだけど。

おまけ

キリスト教の悪口で終わるのもなんなので余談を。
ベロッキオの絵、イエスとヨハネが老けすぎですよね。
このあとイエスが教え始めたのが30歳。ヨハネはイエスより6か月年上(それで6月24日が「洗礼者ヨハネ誕生の祭日」となってます)。だからこの絵の時点で二人とも30歳くらいのはずなんだけど、この顔で30歳って。
吉田松陰の肖像も、数え年で享年29のはずなのにずいぶんだなと思ってたけど。

この「でもクリ×聖書」は、布忠という一人のキリスト信者が聖書をこう読んでいるというものです。まじめにやってるつもりです。ただ、ぼくの言ってることが正しいなどと主張するものではないことをご理解ください。

では。
あなたと、あなたの大切な人たちに、神様のご加護がありますように。

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