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ひとりじゃうまく笑えない

連絡先を交換してまだ親交が浅い相手に対しては、相手の温度感に合わせて絵文字やらスタンプやらを使い分けていくようにしている。絵文字をぱらぱらと使う人には同様にぱらぱらと。顔文字を使うような人にはやっぱり顔文字を。スタンプをぽこぽこ送る人には同じくぽこぽこと。
なかでも注目すべきは「笑い」の表現の仕方だ。別にそうしなくてはいけない決まりなんかどこにもないが、なんとなく相手の表記に合わせたほうがいいような気がして倣うようにしている。だから久しぶりに連絡をとるような相手とやりとりをする場合は、過去のログを遡って確認をしてからメッセージを送るようにするのだ。

ええと、この人は「(笑)」の人だっけ?
それとも句読点の後に直で「笑」だっけ?
もしくはwwwって草生やすひとだっけ?
……なんて、どうでもいいことを遡って確認してから、相手と同じ表記方法で笑うようにしている。いずれも同じ笑いを表現しているというのに、与えるイメージも笑いの度合いも全く異なるから不思議なものだ。

奇しくもこの春にスマホの機種変更をしたものだから、LINEの引継ぎがうまくいかずログを遡ることができなくなってしまった。そうなると、久しく連絡を取っていなかった相手から連絡がきたときも、また軽いジャブの打ち合いのような探り合いが始まる。

おいどうした。早く笑えよ。じゃないとこっちが笑えないだろうが……。

そんなやりとりを重ねていても、相手が語尾に笑いを示す表記を使ってこないこともしばしば。とりあえず語尾に「笑」と付けて送ってみると、相手も同じように返答をしてくることがある。そういうとき、「ひょっとするとこいつも同類か?」とひそやかに仲間意識を抱く。勝手に。

たま〜に読みを間違えて「そうですよねwww」と送った直後に相手が「だよね!笑」と返答してくることもある。すぐさま「いやー、わかるわ。笑」と改める。たった今生やしたばっかりの草をぜんぶ引っこ抜いて、句点の後にそっと「笑」を置くような優柔不断な自分が情けない。
別に相手は相手、自分は自分で違っていいはずなんだけれど、特に「笑い」の表記については相手の温度感に合わせないと気持ちが悪いのだ。たとえば面と向かって会話をしているときに、相手はげらげらと手を叩いて爆笑しているのに、こちらはささやかに口の端を上げてにこりと微笑んでいるだけでは調子が合わないような、そんな気持ちの悪さを感じるというわけである。

こうしてブログの文章を書いているときには、本当にひとりになって考えを巡らせることができる。唐突に草をwww生やしwwwまくってwwwみても、ひとりよがりに(笑)笑いまくったって(笑)文句を垂れるような輩(笑)もいないわけである。笑
だがいざ自由!さあ思う存分おやりなさい!と野に放たれたならば、ではどれを選ぼうかと迷ってしまう。
そもそも一人語りの文章の中では、思考をそのまま素直に書き表すことができるのだから、語尾に取り立てて「笑い」の表記を添付する必要性も感じない。やはりあえて語尾に書き表すのは、他者の発言を肯定するような、いわゆる合槌を打つような意味合いが強いのかもしれない。

句読点だけの文章では、冷たく応対しているように受け取られるんじゃなかろうかと勘繰ってしまう。だから語尾をとりあえず伸ばしてみたりしてー、わたしはおこっていませんからね〜とくねくね〜、うねうね〜と伸ばし続ける。リアルにこんな会話がのさばっていたらどう考えても不快だ。やはりこれも他者を意識したモーション的なものにすぎないのかも。

語尾をくねくね、うねうねさせながら、いたって冷めた表情で「w」をフリックし続けるひとたちに思いを馳せる。
やっぱり文章のなかでわたしたちは、ひとりじゃうまく笑えないのだ。