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美容院とコロナと陰謀論

自分にとって「行きつけの美容院」はかなり貴重な存在だ。
僕は仕事柄引っ越しが多いのだが、新しい土地に来ると美容院選びにいつも苦労する。自分の髪は癖が強く、量が少なく、油っぽいというかなり最悪な髪質のため、それなりの髪型にしてくれる美容師がなかなか見つからないのだ。

だから、今通っている美容院は重宝していた。

その美容院は男性1人でひっそりと経営していた。
店は目立たないが小洒落た雰囲気で、何の前情報も無く、たまたま通りがかって入ったのがきっかけだった。彼は一目見るなり僕の髪型の問題点(正確には当時通っていた美容師のカット技術)を指摘し、髪質や頭の形の問題点を指摘し、とてもロジカルに解決策を提案した。その通りにしてもらい、仕上がりにとても満足し、僕は常連になることを決めた。
あとで聞いたところ、彼は原宿の有名店で店長兼カリスマ美容師として働いた後、結婚を機に地元に戻って独立したとのことだ。
彼の名前で検索すると、今でも原宿で働いていた当時の記事やインタビューが出てくるし、いまだに当時のお客さんが電車に乗って訪ねてくるので、客観的に見ても腕は確かなのだろう。

また、彼との会話も非常に楽しかった。
彼は典型的な陽キャで、マリンスポーツとカメラと猫とアウトドアとアメリカ文化をとても愛していた。飼い猫のアメリカンショートヘアーの話や、愛車のシボレーの話をしている彼はいつも嬉しそうだった。趣味が合うこともあり、2ヶ月ぶりの美容院で、僕はなにを話そうか楽しみだった。

席に座るなり、昨今のコロナと非常事態宣言の話になった。

「非常事態宣言が発令されてからは地獄でした。4月はお店を開けているのに1人もお客さんが来ず、助成金も却下されました。店でボーッとしているのももったいないので、ある意味良い機会だと思って勉強を始めたんですよ」

とても良いことですねと僕は答え、自分も最近読んでいる本の話をした。彼はあまり興味がなさそうに話を打ち切り、

「なぜ今回みたいな危機が起こったのか。色々知ることで次の備えにもなるじゃないですか」

と言った。自分の話をしたくてたまらないという感じだ。この店には2年ほど通っているが、こちらの話を遮ってまで話す彼は初めてだった。

「ただ、いろいろと調べているうちに、なんだか都市伝説みたいな話に興味が出てきちゃって……。あれも、あながち全部嘘だとは限らないじゃないですか?」

都市伝説? 自分は口裂け女が頭に浮かんだ。なぜ今都市伝説の話になるのか。

「とりあえず、これを見てくれませんか?」

彼は僕の前にタブレットを置いた。
タブレットはYouTubeの画面が開かれていて、眠そうなおじさんが面倒くさそうに喋っていた。

・コロナウィルスは5Gの電波で強毒化するそうですね
・コロナウィルスはビル・ゲイツが作ったそうですね
・ワクチンもビル・ゲイツが作っているそうですね
・ワクチンにはナノマシンが入っていて、国民を操るそうですね

眠そうなおじさんはボソボソと喋り続けた。おじさんは何回も「〜だそうですね」と繰り返した。当たり前だが、自分で見聞きしてきたことではないらしい。眠そうなおじさんの話はあちこちに飛び、決して話は上手くなかったが、美容師の彼は「そうなんですよ」と、しきりにうなずいていた。
僕は欧州で5Gの通信基地がデマを信じた民衆に攻撃されたニュースを思い出した。

・ヒラリークリントンの家の地下から10万人の子供の遺体が見つかったそうですね
・生きている子供も6千人保護されたそうですね
・子供を集めた目的は子供を食べるためだそうですね
・ローマ法王も同じことをしているそうですね
・日本のテーマパークは誘拐した子供を収容するカムフラージュ施設だそうですね
・TDLやUSJの地下施設で子供奪還作戦が行われているそうですね
・最近地震が多いのは奪還作戦の影響だそうですね

「この人はよく学んでいる」と、美容師は言った。それ以外に何回も「自分ももっと学ばなければ」と繰り返した。
感想を聞かれ、僕は曖昧な返事をした。反論しようとすればいくらでもできたが、彼の澄んだ目を見ると徒労に終わる気がしたし、店の外では次のお客さんが待っていた。口コミが広がり、ここはいわゆる予約の取れない人気店になっていた。
別れ際、彼は「真実は大きな力で隠されているんです。ぜひ学んでください」と言った。なぜその「大きな力で隠されている真実」を眠そうなおじさんが知っているのかと聞いたところで、「学んでいるから」という答えになるのだろう。そして、反論する僕は「学びの足りない、大きな力に騙されている可哀想な一般市民」ということになるのだろう。

結局その日、シボレーの調子や、飼っているアメリカンショートヘアーのやらかした話は一言も出なかった。彼の愛しているトレーラーハウス、ファイヤーキング、ヴィンテージのリーバイスやコンバースの話が出ることもなかった。僕が着ていたブルックスブラザーズのジャケットにも一切触れなかった。そのジャケットはメイドインUSAだ。普段なら絶対に触れてくれるはずなのに。

眠そうなおじさんが話たことが事実だとしたら、それは世界にとって大きな不幸だろう。もしかしたら本当にTDLやUSJの地下に誘拐された子供の収容施設があるのかもしれないし、今頃ヒラリー・クリントンやローマ法王は子供を食べているのかもしれないし、ビル・ゲイルはナノマシン入りのワクチンを作っているのかもしれない。
もし真実だとしたら、ただちにヒラリー・クリントンやローマ法王に対して「子供を食べるのをやめろ!」と糾弾したり、オリエンタルランドに対して「地下に収容している子供達を解放せよ!」とデモを起こしたりするべきだ。客にYouTubeを見せている場合ではない。

だが悲しいことに、彼の信じる世界にとって大きな不幸は真実かどうかわからないが、少なくともこの行いが美容師の彼自身を不幸にすることは確かだ。気持ち悪がった客はやがて離れていくだろう。10万人の子供達の遺体など関係なしに。

タイムリーなことに、その日の日経新聞の朝刊にファクトチェックの記事があった。記事内には「頭ごなしに否定するのではなく、根拠とともに丁寧に事実を示していけば、誰もが情報汚染の防波堤になれる」と書いてあった。次回同じ美容院に行く気が起きれば、とりあえず10万人の子供の遺体を収容するためには東京ドーム何個分の面積が必要か調べてから予約を取ろうと思う。


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