自らの自由を差し控える自由

ツイッターでポリティカル・コレクトネスや、いわゆるリベラルと呼ばれる態度に関する批判を見ていると、おおむね以下のようなものに集約されるように思われる。

・リベラリストは多様性を重んじるというわりには、自分と異なる見解の者を容易に排除する。
・ポリティカル・コレクトネスの流れはマイノリティの権利を守ろうとするが、結果的に表現のあら探しをし、流れから逸脱したとみなされた人間を社会的に抹殺する。

たしかに、そういう危険で先鋭化した部分があることは否定できない。魔女狩りや文化大革命のようだと言われることもある。けれども、ツイッターでの議論で扱われるトピックはいずれも、事件やスキャンダルとして大きく報道されるものであることが多い。事件として話題になるほどのことだから、かなり分かりやすく極端な性質を持っている。例えばそれはオピニオンリーダー的な人物の失言や、暴動まで起こるレベルの社会的うねりだったりする。

ただ、わたしは、もうちょっと小さな視点も持っていたいといつも思うのである。リベラルとは何かという厳密な定義については、わたしは政治や思想の素人であり、語ることができない。しかし、リベラリストであろうとする者が、少なくとも他者の意見を重んじようとし、他者たちそれぞれの多様性を大切にしようとする立場であるということくらいなら、わたしにも分かる。

ちょっとした言葉の綾かもしれない。他者の意見を重んじ、他者たちそれぞれの多様性を大切にする者がリベラリストであるとは、わたしは思っていない。他者の意見を重んじること、他者たちそれぞれの多様性を大切にすることは、行為の完成形である。そして完成形をつねに実践できる人など、ほとんどいないとわたしは思っている。自分とは相容れない他者の存在を認め、その意見や生き方を尊重することには、緊張が生じる。エネルギーを消耗し、ストレスが募る。そういう緊張した関係性を維持しようとする試みは、いつでも成功裏に終わるとは限らない。むしろ失敗に終わることのほうが多いとさえ言えるだろう。だからリベラリストとは、失言や失態を繰り返しながらもなお、自分とは異なる他者と関わろうと挑戦し続ける人間のことだとわたしは考えている。そして、目の前の他者との関わりとはけっきょくのところ、地味な営みの積み重ねである。それらの関わりの多くは小さな物語に終わる。大した話題にもならないうえに挫折も多いのだから、揚げ足を取ることはいくらでもできる。

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