自分が充満する

映画『教誨師』を観た。俳優・大杉連さんの遺作ともなった作品である。拘置所など細部のリアリティにはこだわらず、ただ白い壁の部屋に、小道具は簡素な机とパイプ椅子、お茶、あとは聖書と讃美歌とヒムプレーヤー(讃美歌自動演奏機)のみ。死刑囚は複数おり、順番に牧師と面談する。季節はめぐり、同じ囚人たちの表情、言葉が変化してゆく。演劇として舞台で演じられても違和感がない演出である。

死刑囚たちはそれぞれ、重度の精神疾患を思わせる人、精神疾患とは限らないが過剰な妄想世界に生きている人、極端な価値観に凝り固まった人、すべてを諦めきっている人、無学文盲の人などさまざまである。その多くが、牧師とはなかなかコミュニケーションが成立しない。「なかなか」成立しない、というより「ついに成立しなかった」というケースもある。

映画を観ているとじれったくなる。牧師の内部に聖書の福音や、それにもとづく相手への思いこみなど、さまざまな意味が破裂しそうに充満している。牧師は持ち前の生真面目さから、囚人の言葉に熱心に耳を傾けようとする。だがうまくいかない。彼の内側に充満する意味がすでに満タンになっており、新たなものが入ることができないのである。そして映画を観ながら「じれったいなあ、もう!」と思っているこのわたし自身の内部にも、牧師を含む登場人物たち全員への解釈が充満している。わたしは意味ではちきれそうになる。

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