「イエスよりも大きな業」聖書のおはなし

'フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 ' ヨハネによる福音書 14:8-17 新共同訳

「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」。わたしたちにとって信仰がたんなる心の問題ではないと、よくわかる一言です。

ヨハネによる福音書を分かちあっていた教会は、キリストを信じたユダヤ人たちが主だったメンバーでした。この人々はユダヤ人の共同体から追放されて、苦しみのなかにありました。そもそもユダヤ人たちの共同体自体がローマ帝国の支配に苦しめられ、神殿は破壊され、その信仰を見つめ直さずにはおれなかった時代です。そうした歴史のなかでキリスト教とユダヤ教との違い、対立が際立っていったのです。

教会は対立や迫害の苦しみのなかで、とにもかくにも集まり、礼拝をし、祈っていたのでした。さまざまな挫折が教会を襲っても、あきらめることなく集まり、礼拝をささげていました。それは、ここでイエスが語る「業」に通じるものです。社会が今ほど分化していなかった時代、教会は福祉の場でもあったし、病院でもありました。富を持つ信徒はその富を寄付し、そのことで教会は活動ができ、貧しい人や飢えた人、病や障害を持つ人、すなわち古代社会では軽んじられ遠ざけられていた人たちと、積極的に関わることができました。

彼らはたんに「いいことをしよう」と思って活動したのではありません。個人の善意は、その人がよほど崇高な志でも持っていない限りは、挫折します。協同で慈善活動をしていても、衝突や仲間割れが起こることも多いです。顔を突き合わせているとぶつかりあうからです。しかし顔を突き合わせるのではなく、顔を同じ方向、つまりイエスの足跡へと向ける。すると、個人的には「あいつ気に入らないな」と思っても、好き嫌いは別として、共にイエスの業を行うことができました。そしてイエス一人ではカバーしきれなかった広大な範囲を、たくさんの人数でカバーできるようになりました。それがイエスの語る「もっと大きな業」です。

「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」 。教会はその始まりから、この信じがたいほど素朴な約束を、それでも信じたからこそ、消えずに続いてきたのです。「熱心に願うと、かなえてもらえなかったときに絶望するから、最初から願わないでおこう」ではありません。願いがかなえられないことを恐れず、いや、そうではなくて、願いは必ずかなえられると素朴に信じ切って、イエスにすがりついて教会は歩んできました。期待を裏切られても裏切られても、馬鹿みたいに正直に、人々はイエスの足跡を追ったのです。

コロナウイルスの禍によって、教会は集まっての礼拝が長くできずにいました。ですが、イエスの業が途切れることはありません。今も聖霊がこの教会に、皆さん一人一人のうちに満ちています。聖霊の「霊」とは、息や風の原意があります。皆さんの呼吸が、神の呼吸とひとつになります。皆さんの行う業が、イエス・キリストの業そのものです。わたしたちは今、イエスよりも大きな業を、ちょっとずつ行っている途中なのです。それはこれからも途切れることなく続いていきます。

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