預言の答え合わせは難しい

アンドレイ・タルコフスキーの『サクリファイス』という映画がある。主人公はお気に入りの館で暮らしているが、ある日核戦争が勃発する。彼は「戦争を止めてください。わたしは最も大切なものをあなたにささげます!」と神に祈る。すると核戦争は止む。いや、ちがう。核戦争は最初からなかったことになる。時間が核戦争開始前に巻き戻され、しかも戦争は起こらないのだ。

起こらない核戦争など、当然だが彼以外誰も知らない。知りようがない。しかし彼だけは知っている。神が彼の祈りを聞き届けてくださったから時間が巻き戻され、戦争のない歴史に切り替わったのだと。そこで彼は誓いどおり、自分の最も大切なもの───お気に入りの館を燔祭のささげものとして神に献げる。つまり館に放火するのだ。彼が精神科へと措置入院されるべく連れ去られる場面で、映画は終わる。

この物語の直接のルーツはおそらく、創世記22章のアブラハムによるイサク献供をモティーフにしたキルケゴールの『おそれとおののき』である。さらには、やはり聖書のヨナ書におけるジレンマからもインスピレーションを受けていると思われる。ヨナ書において、主人公のヨナは神から命令を受ける。その命令とは、ニネベの町の住人たちが神に背いているから、悔い改めるよう預言をしてこいというものであった。紆余曲折あった後、ヨナは神の指示どおりニネベで「悔い改めなければあと四十日でニネベは滅亡する」と預言する。

するとニネベの住人は王をはじめ、全員が心の底から悔い改めてしまう。それゆえ神は天罰を思いとどまる。そこでヨナは激怒するのである。なぜか。その典拠は申命記18章22節である。そこには次のようにある。「その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない」(新共同訳)。つまりニネベの住人が悔い改め、神が四十日後に起こすはずだった天罰を撤回してしまったら、「四十日後にニネベは滅びる」という預言は実現しないことになる。ヨナが勝手に語った嘘だとみなされるリスクが生じるのだ。ヨナは自分が受けるであろう不名誉を想い、怒り心頭に達したのである。

ここに預言のジレンマがある。預言とはその目的からして、神の前に罪を犯した人々に対して到来するであろう災いを預言し、その災いが起きないよう人々に悔い改めさせるためのものである。ところが聖書にあるほとんどのケースでは人々は預言者の言うことを聞かないか、聞かないどころか預言者を迫害する筋立てになっている。それで案の定、預言者の預言した災いが的中してしまうのだ。この場合、預言は人々の役には立たなかったが、預言の示した災いは的中したという意味でその権威が保たれる。

ところがヨナ書の場合、預言をすなおに受け容れた人々が生活態度を改めた。そして神は災いを下すことを撤回した。人々が生活態度を改めるという意味で預言は役に立った。だが預言の内容としての災いは起こらなかった以上、そして誰も神に真意を問うことなどできない以上、表れとして預言は外れたことになる。ゆえに先述した申命記の一節どおり、彼は自分勝手なことを言ったと見なされるのである。『サクリファイス』では主人公は預言者の役割と、預言を聞いて悔い改める聴き手の役割とを兼ねている。彼は神から預言を授かり、それに従い悔い改め、祈った。その結果、神は核戦争を撤回した。事情を一切知らない彼以外の人々からすれば、今さら彼が何を言おうがすべて妄言である。そもそも映画の鑑賞者から観ても、核戦争自体現実だったのか、それとも彼が睡眠中に見た夢に過ぎなかったのか、分からない演出となっている。

ツイッターを見ていると、コロナウイルスの件で自粛に反発する人が多いのを感じる。都知事が嫌いだから。政府/自民党に強制されるのが嫌だから。そもそも自粛などでウイルスを防げはしないから。そしてなにより、経済に大打撃を受けるから。コロナウイルスで死ぬ人より、失業して自殺する人のほうが多くなるかもしれないから等々。そういうわけで、自粛などいっさいお構いなしに外出する人も多い。わたしは権力者に盲従しろと主張したいのではない。今回の疫病に関しては、現時点で未来が見えないきわめて難しい判断を迫られている以上、公的機関が我々に要請する内容も預言的にならざるを得ないと言いたいのである。預言的である以上、聞き従わない人も多いし、聞き従って効果があったとしても、聞き従った行為が愚かに映るということである。

アメリカで感染者が8万人を超えたと朝のニュースで知った。日本がそのような状態になるのか、それともならないのか、もちろん分からない。案外、今の状態が維持されるかもしれない。そうなったとき、それは自粛要請に従ったから効果があったのか、それとも元々の日本の医療システムの優秀さによるのか。あるいは日本人の生活習慣が欧米とは異なるからなのか。我々の多くは専門家ではない以上、分からない。ある年齢以上の人にとって自粛ムードとは昭和天皇崩御前後の、あの独特の忖度の空気を思わせることだろう。だから自粛という言葉に気持ち悪さを感じる人がいるのも仕方のないことではある。とはいえ、もしかすると、自粛もまた防疫の一効果を担っているかもしれないのである。

公的機関が告げる警告は大げさに聞こえることもある。そして言葉どおりそれを守るには忍耐がいる。面倒で窮屈である。警告に従った結果なのかそうではないのか、アメリカのような大流行にならなければならないで「自粛などしなければよかった。経済的な損失のほうが大きかったではないか」という声も噴きあがることだろう。しかし警告に耳を貸さなかった結果、数万人の感染者が爆発的に増大し、医療機関がパンクし、多くの犠牲者が出たときには、先に述べたネガティヴな意味での預言の的中が起こるだろう。

中国に在住する、あるいは家族が中国にいる知人たちから話を聞いた限りでは、感染していない家族も自宅に監禁状態にあるという。彼らの日本語力の問題を差し引くにしても、政府の命令によって自宅に閉じ込められることでようやく感染拡大を抑えることができつつある中国の現状がうかがえる。省みて我々であるが、政府の要請になど従わない、我々は自由な個人だという行動をとれば、自由どころか命に関わる出来事が起こるかもしれない。

歴史は終わってから評価される。コロナウイルスはまだ終わっていない以上、歴史として解釈することができない。何が正しいのかは誰にも分からない。自分の嫌いな政治家が要請したから逆らうのか、そしてそれが正解なのかは、我々にはまだ分からないのである。

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