独りで死ぬことについて

縄文時代の15歳からの平均余命は15~20年程度であったという(岡村道雄『縄文の生活誌』)。平均寿命ではなく、平均余命。つまり乳児の死亡率が高すぎて、平均寿命では成人がどれくらい生きたのかの指標にはならないということである。乳児を含めた平均寿命では、ほんとうに生きたであろう成人たちの年齢よりもずっと低くなってしまうのだ。
当然のことながら出産する母体も危険にさらされ、母親の死亡率も高かった。ある程度成長した子どもは子どもで、樹上などから転落死したりすることもあった。わたしは現在46歳であるが、縄文時代ならヨボヨボのお爺さんになっているか、とっくに墓の中である。

現代人の二人に一人はがんになると聞いたことがある。わたしの父も前立腺がんが遠因となって亡くなったし、母も以前にがんを患った。両親ががんなのだから、わたしもいずれそうなる確率は高い。妻の母親もがんで亡くなっている。なぜ現代人にこれほどがんが多いのか、医師ではないわたしには分からない。だが人類史的に考えてみると、そもそも人体は、そこまで長生きするようには作られていないのかもしれないとも思う。

数百万年というレベルで、人類は50年にも満たない寿命を生きて、死んできたのだ。それが、長い人類史で言うならほんの昨日というくらい最近になって、100歳まで生きる人が珍しくもない時代になった。言うなればある日突然、そうなったのである。100歳まで生きないにしても、多くの人は少なくとも60歳以上は生きるようになった。縄文人のようにもともと30代で死ぬことが前提されていた人体であるのなら、50年も60年も生きれば具合が悪くなってくるのは当然なのかもしれない。

わたしは牧師だから、今まで何度も葬儀をしてきた。わたしよりも若い人の葬儀を行ったときは、さすがにつらいものがあった。だが冷静に考えてみれば、そんな人でさえ、縄文人の平均余命よりは長生きであった。これはきわめて不謹慎な考え方かもしれないが、わたしたち人間は、自分や他人が早死にしてしまう可能性について、そこまで恐怖する必要はないのかもしれない。

先日の健康診断で、肺に影が見つかった。肺がんかもしれないと思った。大げさかもしれないが、それこそ仕事柄だろう、死の覚悟をもって数週間を過ごした。今後どのような苦痛が襲い来るかについて、今まで天に送った方々のことを想像した。はっきり難しい病だと分かった場合に、身辺整理をどうするかなどについてもイメージを重ねた。
精密検査の結果は異状なしだった。「なんと神経質で怖がりなwww」と、読者の方々は思われるだろう。

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