わたしが教義に言及しない理由

わたしは前任地でもツイッターをしていたが、今とはちがって、もっとずっと尖ったことを書いていた。論争的だったのだ。今のアカウントにしてからも、当初は今より攻撃的だったと思う。

自分なりにキリスト教の書籍を読み、教理史や教会史、組織神学などについて学んだことをツイートしたりしていた。それだけならいいのだが、余計なお世話なことに、「だから~な信仰理解は〇〇的な理由から間違っている」といったことまで呟いたりしていた。

当たり前だがそんなことを言われて嬉しい人はいないのであって、わたしはしょっちゅう誰かと論争していた。論争するだけならいいのだが、当時はアンガーマネジメントがうまくいっていなかったこともあって、よく怒った。相手を馬鹿にするようなことを呟いたり、ブロックも頻繁にしたり、されたりした。

しかしある時期から、討論なり論争なり対話なり、まあ呼び方はなんでもよいのだが、見解の異なる人と意見のぶつけあいをすることはほぼやめた。相手が今の信仰に至るまでの道のり、その細やかな消息を想像してみるとき、それはきっと、わたしのそれとはまったく異なるものであるだろうことが、何度かの不毛な議論を経て痛感させられたからである。

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