寂しくなったら、共に茶話を

わたしはTwitterで「教会につながることで孤独を癒しませんか」という趣旨のことを、しばしばツイートする。わたしは東京の、民家ほどの小さな教会で牧師をしているが、そんな小さな空間であっても、孤独をもてあます人にとっては安らぎの場になりうると思っているからだ。
ちいさく静かな礼拝堂で、一杯のコーヒーと、ちょっとしたお菓子をつまみながら、牧師となんとなく話す。それで満足して帰っていく人も多い。

こういうことの必要性を、わたしは自分自身の体験から実感したのである。わたしはまずまずの都会で生まれ育った。そういうわたしが、初任地は地方の城下町、次いで過疎化が進む漁港の町に赴任した。それらの町に住んでみて、地方から都市部へと出ていく若者が味わうであろう孤独の逆バージョンを、わたしは体験した。小さな町に牧師そして幼稚園の園長として赴任するというのは、町の誰に対しても私人ではいられないことを意味した。教会や幼稚園だけでなく、真夜中のコンビニでさえ「園長先生」「牧師先生」と声をかけられるわたしには、気を許して話すことのできる友人というものが出来なかった(もちろん、私人として友人を作ることができるかどうかは牧師の考え方によって、あるいは牧師個々の性格によっても違うところではあるが)。

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