「死を自己プロデュースする必要はあるか」聖書のおはなし

'食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。' ヨハネによる福音書 21:15-25 新共同訳

「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。行きたくないところへ連れて行かれるというのは、ペトロもまたイエスのように将来逮捕され、殉教することになる、ということの予言です。一方で、わたしたちがこんにちの日本で、信仰のゆえに殺されることはほぼないでしょう。

ところで、わたしは仕事柄、今までの任地で何人かの方々と、この地上でのお別れをしてきました。元気で、自分でなんでもしていた人が、だんだん臥せりがちになり、介護を受けるようになり、命を終え、天に向かう。若い時は自分で帯を締めて、行きたいところへ行けた。自分の意志どおり自由に。しかし現代もまた、最後には行きたくないところへと連れて行かれることは多いのです。住み慣れた場所で家族に見守られながら、息を引き取ることは難しい。最後には病院へと救急車で運びこまれ、そこで亡くなることがほとんどです。家から離れたくなくても、病院へ連れて行かれる。というのも、その頃には自分で意思表示をすることは難しくなっているから。「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」のです。その現実を、ペトロの最期のように、このわたし自身の将来に起こる、信仰の事柄として引き受けることができるか。それを今、イエスは我々に問うています。

しかし、わたしたちは自分の死から目を逸らしてしまう。終活と言う言葉があります。どのように安らかに人生を終えるかについて、さまざまなプランが紹介されています。しかしその「安らかさ」の基準は、他人との比較に拠っているところが大きい。あんな素敵な安らかな死を、あの人はもう準備している。わたしだって、人さまに迷惑はかけたくない。元気なうちに早く準備しなきゃ!

ペトロもまた、他の弟子について「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と質問しました。ペトロは自分自身を見つめるよりも、まず他人のことが気になってしまったのです。いかにもふつうの人らしくて面白いですね。そんなペトロに対するイエスの言葉は、だからふつうの人たる我々への答えです。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」。他人の未来がどうなるかなど、あなたが詮索することではない。他人と比較するな。あなたは、あなただけのやり方で、わたしに従って歩めばよいではないか ──── イエスはそう語りかけてきます。

イエスはペトロの、将来の殉教さえ祝福した。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」と。殉教というのは信仰を守ったが故の惨殺です。安らかさの真反対。他人にも迷惑どころか危険が及びます。しかしイエスは、そんなペトロの最期に、神の栄光が現れると言ったのです。教会関係者で孤独死をなさる方もおられます。世間的には、それこそ他人と比較しての終活的な価値観で「ああ可哀想に」でしょう。ですがイエスなら「そんなことあるか!」と断言するでしょう。イエスはそこにいます。あなたが他人に帯を締められ、行きたくないところへと向かわねばならない、まさにそのときに。

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