俯瞰と他責、対話と傾聴

わたしのもとには、さまざまな背景を持つ人が相談に来る。それは教会関係者にとどまらない。ツイッターやホームページから、電話あるいはダイレクトメッセージ、直接の来訪などで相談を聴く(来訪の場合は、事前に連絡をもらうようにしている)。

わたしはそうやって何人もの人たちと話してきて、気づいたことがある。傾聴と対話との違いである。もちろん、対話を狭い意味に絞ってのことである。広い意味では傾聴も対話だからである。というより、人と人との出会いにおいて、広義での対話がないことのほうが稀かもしれない。繁華街で赤の他人とすれ違うのはべつだが、それは出会いではない。ここでは狭い意味での対話、つまり意見のやり取りができるかどうかである。

相談に来る人のなかには、他人から受けた傷を切々と訴える人も多い。その際に、その人が一方的に相手を責めていることがある。自分は何も悪くない。すべて相手のせいだ。わたしはこんなことをされた。あんなひどい目にあったと。そうしたケースでは、わたしは上記の狭い意味での対話をしない。そして、これもまた狭い意味でのことであるが、傾聴に徹する。相談者に対してコメントを返さず、ひたすら「うん、うん、ほんとうにそうですね」と相槌を打ち続ける。相談者はわたしに意見など求めていないからである。

自分には非がないこと、悪いのは相手であることを認めて欲しいという訴えの場合、相談者が受け止めて欲しいのはその怒りや悲しみである。あるいは怒りや悲しみの背景として重くのしかかる、孤独や絶望である。わたしの意見は、そこでは必要ではない。わたしが相槌を打つことで、相談者は同伴者としてのわたしを、わずかでも感じることができるだろう。

一方で、こういうケースもある。たしかに訴えの内容は上記と同じように自らの苦痛、他人の非道い仕打ちなどについてであるが、そうやって苦しんでいる自分自身を何ほどか俯瞰してもいる場合である。「相手のしたことは腹立たしいし赦しがたいことであるが、相手にも余裕がなかったことは理解できる」というような言葉を、相談者から聞くことがある。こういう場合、わたしは直観的に「対話ができるな」と考える。

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