まとはずれな祈り

「死にたくない。怖い。助けて、お父さん、お母さん」
そう泣いたのは子どもではない。高齢の女性であった。彼女は難病に苦しんでいた。病の症状もさることながら、それがゆっくりと、しかし確実に死に至る病であること。この現実が彼女を日々、恐怖へと駆り立てていた。

家庭訪問すると、彼女はいつも泣きながらこう祈っていた。
「神さま、この病を癒してください。治してください。元気にしてください」そして「死にたくない、お父さん、お母さん」と、すでに亡き両親へと泣きつくのであった。
病気が治ること。それが医学的には不可能であることはわたしにも分かっていた。それでも、わたしも彼女と共に祈った。
「主よ、どうかこの人の病を癒してください。お願いします。どうか」

帰り道、家庭訪問に同行した信徒の方からたしなめられた。
「先生。彼女には自分の病を受け入れるよう、慰め、祈ることが必要なのではないですか。病にも主の御心があるはずだと。病のなかで、それをも個性として生きていこうと。そう彼女に勧めるのが牧師ではないですか」

正論かもしれない。だが、わたしにはそれはできないと思った。彼女の心は神へと開かれ、いや、全開し、ありったけの叫びで「治してください、癒してください、助けてください」と泣いている。それをわたしごときが「いいえ、あなたのなすべきこと、それは受容です」と、それがどんなに説得力ある言葉であったとしても、言ってよいはずがない。そしてなにより、彼女は子どものように泣いてはいたが、子どもではない。他人に言われずとも、彼女自身じゅうぶんに理解している。自分が日々、死に近づいていることを。

神へと全開になっている彼女の泣き叫びを前にして、わたしもまた心が全開にさせられたのである。彼女が子どものように祈るなら、わたしも子どものように祈ったのである。それは連鎖反応であって、配慮ではなかった。もはや彼女への気遣いなどという気取ったものは存在しなかったのである。気がつけばそう祈らずにはおれなかった、それだけだ。思い上がりかもしれないが、わたしは彼女と同じ方角を見て、同じ神に、同じ叫びを叫ぼうとしていたのである。

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