安全な場所へ殺到

'ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、 あなたの前に道を準備させよう』 と書いてあるのは、この人のことだ。 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。 あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 『笛を吹いたのに、 踊ってくれなかった。 葬式の歌をうたったのに、 悲しんでくれなかった。』 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」 'マタイによる福音書 11:2-14,16-19 新共同訳

「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」。信頼がなければ、まあ何をしようがこんなもんです。ヨハネの態度は厳格な禁欲だし、人の子つまりイエスの態度はおおらかです。宗教的な生き方にはどちらの態度もありうると思いますが、その宗教者への信頼がなければ、禁欲したらしたで異常者扱いされるし、おおらかならおおらかで堕落していると非難されるというわけです。

洗礼者ヨハネは牢獄に捉えられ、やがて処刑されてしまいました。そういうヨハネに対して、たとえば多くの人が「なんだ、極端なことばかり言って。けっきょくは捕まって死刑になってしまったではないか」と思うこともありえます。しかしイエスは彼を預言者以上の者として、深く信頼しました。それだけではありません。イエスは、ヨハネよりもずっと小さな存在でさえ彼よりも偉大であると語ります。ということは、ヨハネよりもずっと小さな存在をも、イエスはヨハネ以上に深く信頼しているということです。この小さな人が救われないはずがない、この人は絶対に救われる。そうでないとおかしいと、イエスはヨハネのようには目立たず、社会の片隅で一所懸命生きている、小さな人を信頼するのです。

「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」というイエスの言葉は難解で解釈も諸説あります。しかしわたしはこう思います。天の国すなわち救いの場というのは絵空事ではない。まあ、そのうち行けたらいいや、というような、後回しにできる場所ではない。「助けてください!もう無理!」という人が力ずくでもすがりつき、奪い取ろうとするくらい渇き求める場所、それが神の国なんだと。今、それほどに神の国を求めねばならない、追い詰められた人々がいると。そしてそういう一人ひとりが無視されていいはずがない、わたしは断じてその人たち一人ひとりを信頼する、と。そのようにイエスは語っているのだと思うのです。

「笛を吹いたのに、 踊ってくれなかった。 葬式の歌をうたったのに、 悲しんでくれなかった」。おそらく当時のわらべうたなのでしょう。「こいつだれ?」と思う人間が笛を吹こうが葬式の歌を歌おうが、誰も共感してはくれません。その笛や歌に、誰も反応はしない。イエスやヨハネのことを「こいつなにさま?」と思っていた人たちは、イエスやヨハネが何をしようが、何を語ろうが、無視したでしょう。宗教的な奇跡も、禁欲も、逆におおらかに振る舞うことも、「こいつだれ?」と思っている人にとっては、ぜんぶうさんくさいことでしかないですから。こんにちでも、たとえばキリスト教をどれほど筋道立てて語っても、また、世間ウケしようと教会のハードルを下げても、相手との信頼なしには論証もできないし、そもそも相手にされないのと同じです。

ですがイエスはあなたやわたしのことを「こいつだれ?」とは言わない。決して言わない。目立たないあなたやわたしのために、十字架で殺されるリスクさえ惜しまなかったのがイエスです。そういうイエスを、それでもあなたは信頼できませんか?お祈りします。

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