うまく言葉にならないと、言葉で言う

ニー仏さんとツイキャスをした。やはり声で交流するのはよい。ツイッターの文字のみでやり取りするよりも、細かいことが分かちあえてよかった。

例えば次のようなことが、わたしにはとても大事なのである。ニー仏さんが論理的かつ丁寧に語る。わたしにはそこに付け足す何物も思い浮かばない。何か言えることがないかと、わたしはしばし沈思黙考する。すると、わたしが言葉を選ぶことに困っていると察したニー仏さんが、すかさず気遣いの言葉を語り始める。

この、「話者が言葉に詰まり、相手が言葉に詰まったことを察したもう一方の話者が、それに応じて表現を変える」といった、ほとんど瞬時に起こる気遣い。これは140字の短文のやりとりではなかなか起こらないか、あるいはそもそも不可能かである。

「うまく言葉にならない」というもやもや感を、わたしはとても大切にしている。教会に相談者が訪れる。相手はわたしに何かを伝えたいのだが、うまく言葉にできない。沈黙が訪れる。そんなとき、わたしは相手の代わりに何かを言うことをしない。たとえばニー仏さんとわたしとの関係であれば、つきあいも長いし、なんとなく相手の雰囲気を察することができるので、「こういうことですよね?」と言葉を繋ぐことも可能である。しかし初対面の人と対話しているときは、事情が異なる。わたしは沈黙の、なんだったら気まずさといっていいほどの緊張を、とても大切にしている。「うまく言葉にならない」という出来事自体が、すでに言葉だからである。

ここから先は

1,608字
この記事のみ ¥ 300

記事に共感していただけたら、献金をよろしくお願い申し上げます。教会に来る相談者の方への応対など、活動に用いさせていただきます。