祈りへの覚え書き

3世紀のローマを、1日に5千人は亡くなるという疫病が襲った。アレクサンドリアでは人口の三分の二が死滅したともいう。ロドニー・スタークはその著書『キリスト教とローマ帝国』(穐田信子訳、新教出版社)において次のように語る。当時、疫病の感染者は棄てられるのがふつうであったが、キリスト教徒は患者を看病した。もちろんキリスト教徒も感染して死んだだろうが、彼らには殉教という信仰形態があったため、死を賭してでも感染者のケアをした。見捨てられた患者は100パーセント死亡するが、ケアを受けた患者は生き延びることがある。ロドニー・スタークの分析によれば、こうした要因もキリスト教徒が増える契機となった。いわば病院の始まりである。

こんにち、教会が患者を治療という意味でケアすることはない。医療は高度化、専門化した。そこに教会が立ち入る隙はない。しかし教会には古代とは別の役割が求められている。不安へのケアである。ニュースでは連日のようにコロナウイルスの死者数が報道される。国家非常事態宣言が出された国もある。それこそ先述の歴史を彷彿させるかのように、イタリアでは膨大な数の犠牲者が出ている。

キリスト教に限らず、いわゆる伝統宗教は、これまで数々の疫病の大流行を体験してきた。日本でも疫病神という言葉が、流行病が何度も人々の命を奪ってきた歴史を物語っている。そのたびに人々は神仏にすがり祈ってきた。それぞれの宗教の指導者たちもまた、自らも病に斃れることもあったであろうが、人々の不安に応えて祈ることをやめなかった。

これまでも何度か書いてきたことだが、人類の平均寿命は長いあいだ、今よりもずっと短かった。縄文時代の15歳からの平均余命がわずか15年だったことまで遡らずとも、明治時代の初期でさえ子どもの死亡率は高かった。七五三の祝いはもっと後代に一般化したのであろうが、それでも今とは比べものにならない有り難さを持っていただろう。子どもが命を失わずに無事成長するということは、自明のことではまったくなかったからである。だからこそ人々は祈りながら子育てをしたのだ。

1956年の映画『早春』において、笠智衆演じる定年退職したサラリーマンが、まだ50代にして「先が見えてきた」、つまり死が近いと語る。彼は病気で寝込んでいるのではない。元気な老後を送る彼が、そう語るのである。60代で亡くなることがまったくふつうだった時代。それはまだ100年にも満たない、ほんのつい最近までの当たり前であった。ちなみにわたしの母方の祖父母も1980年代半ばに、それぞれ64歳と73歳で亡くなっている。わたしも母もそれを「早過ぎた死」とは思わなかった。今は70代である団塊の世代の多くがバリバリやっている。

90歳や100歳以上の高齢者も珍しくなくなった現代において、キリスト教の意味も変わってきたとわたしはこれまで思っていた。イエス・キリストのもとに集まってきた群衆は「生きたい!」とイエスにすがりついたのであって、自殺をしたいと願う人はおそらくいなかった。いや、イエス以降の時代もずっと、ほんの数十年前まで、人々は容易に病で亡くなった。少しでも生活をよくしたい、長生きしたいと頑張る時代がつい最近まで続いてきた。だから教会も彼らへの祝福、すなわち健康や長寿を神に祈ってきた。

しかし長生きがある程度自明のこととなり、むしろ「死にたい」と絶望する人が増えてきたという事実を前に、教会は何を答えることができるのか。死亡率の高かった時代に生きたイエスさえ、「死にたい」という人のことは想定していなかったのではないか。わたしはそんなことを考えるようになっていた。だが今回のコロナウイルスの流行は、そんな考えは傲慢以外の何物でもなかったという事実を、わたしに突きつけた。

毎日世界から、そして国内から入ってくるニュースを前に、多くの人たちが、それまで自分からは遠いものだと考えていた「自分の死」を感じている。もちろん「わたしは死んでしまう!」と恐慌している人はわずかだと思う。もっと静かな、曖昧な不安である。しかし曖昧ではあっても、今回の疫病の流行以前よりははるかに具体的な、「この自分が死ぬかもしれない」という不安である。そして瞬時の恐怖とは異なり、不安は長期間続くことによって人を蝕む。

キリスト教に限らず諸宗教は今、古来同様の祈りを求められている。そう、現代ならではの祈りではなく、古来同様の、疫病が流行するたびに祈られてきた祈りを、である。人類が何度も辛酸を舐めてきた疫病から、人々が守られますようにとの祈り。どの宗教であれ大規模な集会はとうぶんできないかもしれない。そこは現代の医学的知見に従って、近代までの大流行と同じ轍を踏まないようにしたいものである。しかし人々の個別の不安に対しては、宗教関係者はその話に耳を傾け、共に祈るということを続けていかねばならない。そして宗教者もまた人間である以上、不安を拭い去れないこともある。宗教者同士の相互の祈りも欠かせない。

個人の不安が社会不安となり、社会が混乱するとき。「これが人間の現実だ」と諦め、冷笑するのか。それもまた仕方ない一面ではある。しかしそれぞれの信じる対象に向かって祈りをささげる。そして祈って落ち着いたら、今自分ができることを静かに、立ちどまって考える。いや、立ちどまって考えることと祈りをささげることとは一つなのかもしれない。わたしは信じている。ウイルスに感染して亡くなった人たちは、まだ生きているわたしたちと共にいる。わたしたちは立ちどまって死者を想い、祈る。そして祈りの余韻のなか、また急ぎ生活へと立ち戻るのである。

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