等身大立て看板

先日、録画しておいた黒澤明監督の1957年の作品『蜘蛛巣城』を観た。戦で手柄を上げた主人公とその親友である武将が、森のなかでもののけから予言を受ける。主人公はやがて蜘蛛巣城の城主となり、その跡は親友の息子が継ぐであろう、と。二人はそれを笑い飛ばす。だが、彼らの行動は次第に...という展開。予言が成就したのか、それとも予言を人為的に実現させようとするなかで他者への疑いが生じ、血で血を洗う暴力の連鎖が生じたのか。予言を他者への疑いに導くべく、妻が主人公をそそのかす。あるいは、主人公の心に次々と浮かぶ他者への疑いを、妻が代弁しているともいえる。

毎週恒例の「聖書を読む会」をしていた。わたしは出席者たちとコーヒーを飲みながら、聖書は長い歴史のなかで家庭ではなく礼拝で朗読されてきたと話した。そのとき、カトリックにも詳しい出席者の一人が言った。「礼拝は跪いたり賛美をしたりと、身体の動作を伴いますよね。同じ動作をしている他人を見て、『同じことを信じている人だ』と了解できるんです」。わたしは話を聞きながら、とても大切なことを言っていると思った。

わたしたちは自分のであれ他人のであれ、心を「これが心です」とマグカップでも指さすようには示すことができない。だからキリスト教においても、礼拝に集まっている人々が「神」という言葉でそれぞれどんなイメージを抱いているのかとか、イエスの顔をどんなふうに想像しているのかとか、そんなことはお互い分からないのである。それに、分かる必要もない。なぜなら、そもそも一つの礼拝堂に集まってきている時点で、少なくとも同じ神に祈ろうとしていることは明らかだからである。そして他人たちと声をあわせて賛美をしたり、主の祈りを唱えたりすることで、自分が他人たちと同じ対象を信じていると体感はできるからである。各自の心の「なか」がどうなっているかなど検証する必要はないのだ。

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