ゆっくりと変わる~昨日言い忘れていたこと

ツイッターでも、こういうことはあるかもしれない。なにしろ文字だけ、匿名とはいえ、とにかく人間が人間たちに対して発信しているのだから。そして人間「たちに」とはいうものの、それを受けとめる一人ひとりは「たち」などではなく、具体的なたった一人の人間なのだから。

こういうこととはどういうことか。つまり、相手が時間をかけて変化してゆくということである。それも、こちらの思いもよらない仕方やタイミングで、いつの間にか変わっているということだ。例えば相手とわたしとの意見が対立していたり、意見というよりは生き方などに関して「あなたの生き方ではまずい」とわたしが思っていたりすることがある。その場で「あなたのありようは~という点でおかしいと思います」と言うこともできるだろう。しかし多くの場合、相手は聞き入れてはくれないだろう。ましてや、その場で相手の生き方が変わるなど、まずあり得ないだろう。

わたしは牧師になってからこのかた対面で、何度も同じ失敗を繰り返してきた。相手を議論で言い負かしてしまったのである。論駁したのだから、相手はその場ではぐうの音もでない。だが、わたしへの怒りをたぎらせている。怒りをたぎらせているというのはさすがに大げさかもしれないが、少なくとも「もうこの人に話しても無駄だ」とは思っている。その人は二度とわたしに反論しなくなるだろう。だが、その人はわたしの意見に納得したのではない。わたしとの関係を諦めたのである。

わたしは今では、少なくとも教会において、むやみに反論することはしないよう気を付けている。それは決して信徒や来会者に媚びているからではない。その場ですぐに反論するのとは違う仕方があるからである。それはどういう仕方か。それは、わたしのありようを黙って示し続けるという仕方である。「あなたにはこんなふうに変わって欲しい」と心のなかで思いながら、「いや、それはわたしの願望なのだ。この人には、まったく別の歩みが用意されているかもしれない」とも思いつつ、ただ黙々と目の前の仕事を続ける仕方である。

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