家にいてつらいときの祈り

'同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。 その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。 たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。 同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。 「命を愛し、 幸せな日々を過ごしたい人は、 舌を制して、悪を言わず、 唇を閉じて、偽りを語らず、 悪から遠ざかり、善を行い、 平和を願って、これを追い求めよ。 主の目は正しい者に注がれ、 主の耳は彼らの祈りに傾けられる。 主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」 'ペトロの手紙一 3:1-12 新共同訳

この、ペトロの手紙一と呼ばれる手紙は、教会が何らかの厳しい迫害の状況にあったなかで、信徒たちを励ますためにこのような形に編まれたとも言われています。キリスト教徒たちは最初、イエス・キリストが十字架にかけられ殺され、三日目に復活し、天に昇って行ったあと、すぐにもう一度再臨すると信じていました。そしてキリストによる最後の審判が行われ、この世界の歴史は終わり、究極の神の支配、救いの完成が起こる。人々はそのことを今か今かと待ちわびていたのです。

けれどもこの手紙が広く読まれるようになったのは二世紀ですから、イエスの時代から何十年も経っています。人々は「今すぐキリストが再びこの世にやってくる」という信仰から、「キリストがやってくるまで、どうやってこの世界で生きていくべきか」という信仰へと変化していったのでした。そこで、ユダヤ人が大切に守ってきた信仰的倫理観や、当時のローマ帝国で良識的とされていた倫理観などが組み合わさって行って、キリスト教徒の倫理観と言ってもいいような価値観が少しずつ積み重ねられていったのです。また、教会も今ほど複雑ではないにしても、組織の芽生えが始まって行きました。

今日の聖書箇所は、そのような価値観の形成のなかで育まれたであろう、家庭のありかたを語ったものです。注意していただきたいのは、今申しあげたように、これらの価値観は、厳しい迫害の下にあった教会の信徒たちが、しかも今から2000年近く昔の常識における人間理解のなかで、どのように夫婦生活を営むべきかが論じられたものだということです。そのため、今日のジェンダーやセクシャリティの理解とは異なる表現も多くみられるという点については、ご注意いただきたいところです。

それでも今日の聖書箇所には読むべき意味があります。「皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」。「命を愛し、 幸せな日々を過ごしたい人は、 舌を制して、悪を言わず、 唇を閉じて、偽りを語らず、 悪から遠ざかり、善を行い、 平和を願って、これを追い求めよ」。この信仰に照らされて、彼らは精一杯、目の前の他者に対して誠実であろうとしたからです。他者に対して、思ったことを直情的に述べ立てないこと。正論や理屈で説得しようとはしないこと。思いがこみ上げ、「言ってやる!」と思ったら、ほんとうに口に出す前に祈ってみること。

妻から夫へというところで語られていることは、信仰に基づいた内面から滲み出る行いによって、お互いが大切にしあうということです。また、「夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし」の「弱いもの」というのは当時の言葉で性的なパートナーという意味が含まれています。強引な性行為を迫るな、相手が嫌がっているのに性行為を強要するなという意味があることを、当時の人なら読んで理解できました。迫害下にある困難な教会生活を乗り切るには、まず家庭に信仰的な平和がなければならないと、この手紙は慰め、励ましているのです。今日から見て違和感のある価値観が含まれているのは、言い換えれば、それだけ教会がその時代に固有の問題と具体的に向き合い、家庭の悩みに答えようとしたことを示しています。

聖書の時代から、家庭の具体的な問題はいつも、切実な祈りの課題でした。今、外出自粛やテレワークということで、夫婦ともに家にいる時間が長いご家庭もあるかと思います。お子さんも長時間お家におられることでしょう。ご家族同士、今まではなかったような衝突が起こり、悩んでおられる方もおられるかもしれません。苦しい時には独りで抱え込まないで、こちらまでお気軽にご連絡ください。

ご家族お一人おひとりの苦しみに、イエス・キリストの慰めがありますように。

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