信頼と信心と信仰と

「クリスマスを祝い、初詣に行くのは節操がないことである」とは、とくにクリスチャンのあいだで言われてきたことである。信仰を貫くのが大変であった時代、信仰共同体が瓦解しないためにも、ほかの宗教には見向きもしないという姿勢は重要であった。そして、今でもそのような信念をもって他宗教とは一切関わりを持たないという人にも、わたしは共感と敬意を抱いている。

その一方で、そこで言われる信仰という言葉には、「決断すること」の意味あいが強い。たしかに、キリスト教信仰には洗礼があるから、洗礼を受けることを「決断すること」は信仰の出発点ではある。だが聖書に登場する「信仰」という言葉の原意を古典ギリシャ語にまで遡ってみると、そこには「信頼」、さらには法廷での「証拠」といった意味さえあることが分かる。

信頼することに決断は必要であるか。それは場合による。
法廷で扱うような案件であれば、それこそ証拠が必要である。証拠が揃っていれば信頼に足る。証拠不十分であれば(証言その他は)信頼できない。
しかし「わたしは姉のことを信頼しています」というような場合は、どうだろうか。

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