閉鎖病棟に入る(6)

わたしは元少年Aを弁護したいわけではないし、同室の少年を断罪したいわけでもない。彼の妹は辛くも無事だったという。ひょっとすると「妹を金づちで殴った」というのも、彼の虚勢を張った言葉だったのかもしれない。とはいえ、ここに措置入院させられる程度のことはやったわけだ。すべてが嘘だというわけでもないだろう。わたしは知ったのである。世のなかには「人を傷つけてはいけない」という感覚を、器質的に持つことができない人がいるかもしれない可能性を。そしてそういう人には、テレビのコメンテーターの義憤とはまったく異なる、新しいアプローチが必要なのだということを。少なくともわたしの小さな正義では、目の前のこの少年について、一言も語り得ないことだけは分かった。

入院して2か月を過ぎる頃になると、わたしのストレスも限界に達した。それほど広くない病棟で、ずっと少年たちと顔を突き合わせて過ごすことが、わたしにも苦痛になってきた。彼らにはまともに向きあってくれる親がいない。だからかもしれないが、親世代であるわたしがどこに行くにも、彼らはついてくる。独り静かに本を読みたくても見境なく声をかけてくる。トイレに行っても、食堂へ行っても、窓の外を眺めていても、彼らはついてくるのだ。独りになれる時間が一切ないということが、これほど厳しいものだとは思わなかった。最初の頃は少年たちにできるだけ愛想よく応対していたわたしだが、だんだん邪険に突き放すようになっていった。時にははっきりと「悪いが一人になりたい」と意思表示もした。それでも、とくに同室の少年はわたしについてくるのだった。

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