彫っていたら姿を顕す

'彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。 'ヨハネの黙示録 21:4 新共同訳

散髪に行った。自粛もあったりして、なかなか行けずにいた。ようやく安心して散髪できると思ったら、奥の客が店員と「今日の感染者、30人以上だって!」。まだ出かけるのは早かったのか...

そんなことを考えていたら、隣の椅子に3歳にもなるかならないかのちいさなお客さんが、ちょこんと座った。慣れているのか、母親は息子を座らせると「あとで迎えに来ます。次は娘もお願いします」とどこかへ去った。

わたしは、父に連れられ初めて散髪に行ったときのことを、懐かしく想い出した。頑固おやじが店主で、学生服の見習いがいた。頑固おやじを覚えているのは、そのときのことだけだ。父によれば、おやじはその後体をこわし、学生服に店を譲り、やがて亡くなったのだという。長じてわたしは、その学生服から長いあいだ髪を切ってもらうことになる。ちなみに彼が学生服を着ていたという記憶も、その一回限りである。

初めての散髪はさんざんなものであった。医者や歯医者に行くのと同様、わたしにとって散髪の椅子に独りで座り、白い服の男に覗き込まれるのは恐怖でしかなかったらしい。号泣しては、困惑した頑固おやじが鋏を引っ込めたのを覚えている。横で父と学生服があやしてくれた、かすかな記憶もある。

学生服の彼は気がつけば立派なあるじで、わたしのほとんどの記憶は彼の頼りがいある技術と饒舌である。彼は先代とちがって柔和、バリカンは滅多に使わず、鋏さばきも繊細であった。幼いわたしにも丁寧に剃刀をあててくれた。くすぐったかったが、あとで肌がつるつるになるのが不思議で仕方なかった。

ここから先は

1,900字
この記事のみ ¥ 300

記事に共感していただけたら、献金をよろしくお願い申し上げます。教会に来る相談者の方への応対など、活動に用いさせていただきます。