閉鎖病棟に入る(13)

「相手にも言いぶんがある」
わたしは医師に対して今までの苦境を訴えるにあたり、つねに「~のせいでこうなった」「~にこうさせられた」という仕方で語ってきた。たとえば、わたしは自分が高校を中退したときのことを医師に語る際にも、「教師たちの無理解のせいで、退学へと追い詰められた」という仕方で語った。神学部でゼミを変更した体験を語ったときにも、「教授に無能呼ばわりされ、相手にされなかった」というように回想したのである。当然、今回の入院についても、「職場で追い詰められた」「もうあんな人(たち)とはやっていられない」等々、とにかく周囲の人々のわたしに対する無理解を主張し、わたしの敵とみなし、自分には落ち度はなかったと主張し続けてきた。

主張し続けてきただけではない。激しく怒り続けてきた。すなわち、ありのままの、いわば無垢なるわたしはつねに理解されず、周囲から云われのない罪を負わされ、不当に扱われていると、不満を募らせてきたのである。医師がわたしに厳しいことを言った際には「患者を侮辱するのか!あなたさえわたしを分かろうとしないのか!」と診察中にキレてしまった。大声を上げたり、机を叩いて立ち上がったり、椅子を蹴り倒したりと、憤怒を露わにした。わたしには「相手にも言いぶんがある」ということについて想像しようとする意志が、微塵もなかった。

医師はわたしの怒りにまったく動揺しなかった。「そんなことでわたしを恫喝しても無駄ですよ。あなたの怒りでは、わたしを思い通りに操ることはできません」と、静かに座っていた。そしてわたしの話を聞いては「そのとき、相手はどう考えたと思いますか?」と執拗に尋ね、一つひとつ、わたしの問題点を洗い出していった。診察を重ねるにつれ、あるいは毎回の診察を終えてベッドに戻ったあと、わたしは「相手はどう考えたか」などそもそも考えたこともなかったという事実に気づかされていった。

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