マガジンのカバー画像

生きること、死ぬこと、そのむこう

275
牧師として、人の生死や生きづらさの問題について、できるだけ無宗教の人とも分かちあえるようなエッセーを書いています。一度ご購入頂きますと、過去の記事、今後更新される記事の全てをご覧…
このマガジンの記事を踏み台に、「そういえば、生きてるってなんだろう?」と考えを深めて頂ければ幸いで…
¥3,500
運営しているクリエイター

2019年3月の記事一覧

あなたが、あなただけの十字架を秘かに背負っていること

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字…

300

部分に集中するか、全体を探るか

わたしは牧師なのでさすがに神社で御守を買うことはない。しかしわたしの姉はクリスチャンでは…

300

宗教のハードルは高いものだ

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、…

300

それが想いだされること

この記事はマガジンを購入した人だけが読めます

葛藤さえできない

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、…

300

まったく共感できない人と関わる

教会では、例えば貧しい人、病に苦しむ人、孤独な人を憐れもうといったメッセージが語られるし…

300

「神に委ねる」ことは思考停止か──どうしても納得できないことをめぐって

伝道者駆け出しの頃、年長の牧師や、果ては同期の伝道師からさえも頻繁に言われたものである。「人間的な思いにとらわれず、すべてを神に委ねたらいい」。老いも若きも、彼らはじつにおだやかに、落ち着いた笑顔でわたしにそう言うのだ。 わたしは時に反抗し、時に落胆しながら、まるで自分だけがプールサイドに突っ立っているように感じたものだ。みんなプールのなかですいすい泳いでいる。彼らは時折水面から顔を出しては「君も飛び込みなよ!」と、わたしに呼びかけてくる。わたしはといえば水面を覗き込みはす

¥300

「仕方ない」と思える恵み

我々には信教の自由がある。信教の自由があるということは、宗教をまったく信じない自由もある…

300

自己は統合されているか──灰の水曜日に

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によ…

300

他人に寄り添うとは何か

学生の頃シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』を読んで、自分もこんな信仰を持ちたいと熱望した。…

300

預言者的に生きる──他人を不快にする表現について

『ノストラダムスの大予言』というのが子どもの頃、なんとなくオカルトで流行っていた。もっと…

300

聖書のような奇跡はあるのか

わたしは今日も教会で、集まった人々に奇跡の話をしていた。 使徒ペトロが、足の不自由な40歳…

300