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夢と水と

その夢の中の光景は、ジブリのアニメ『天空の城ラピュタ』の一場面のようだった。あるいは生き残った少年少女が廃墟と化した近未来の街を彷徨い歩いているといったハリウッド映画のようでもある…二人の中学生ほどの少年少女が、何かの賑やかな、そして祭りのようなイベント、恐らくスキー林間か何かの帰りに北から南へと向かう列車に乗ったのだが、どういうわけか、二人だけがとある駅で取り残されることになった。そこは一面ノイズがかったモノクロームのゴーストタウンで、永遠に太陽も昇らないかのようだった。二人は誰一人いない街のメインストリートを歩きながら、広大な水たまりを見つけた。水の中を覗き込んでみると、そこには水没した都市が見えた。ふたりはこの世界から抜け出し、家族の待つ故郷に帰るためには、この水没した街を通り抜けなければならない、と悟った。そして、息を限界まで肺に吸い込み、鼻をつまんで一気に足から水の中に飛び込んだ…不思議なことにその水はまるで目的を持っているかのように激しい流れを形成していて、二人を目的地まで猛スピードで押し流していく。ふたりは一旦水の底の底まで吸い込まれたかと思うと、あっという間に上昇に転じた。もう少しで水面に出る、と思った時、光が目に飛び込んできた。もうすぐこの水を抜ける…そこで夢は途切れた。

我々は、ガストン・バシュラールのように水の夢想に思いを馳せるべきなのだろうか。明るい水、暗い水、春の水、淀んだ水…水の表情がいつしか人の感情と思いを映し出し、心情と四大的世界が照応し合う官能的で普遍的な想像世界を。そんな水の夢想に照らしてみるならば、この夢の水は、「迸る水」と表現できるだろうか。凍結や淀みとは無縁で勢いと力に満ち、ある目的に向かって、海の潮流のように、流れを形成している。

その勢いと力の感覚は、目覚めた意識にとっては、光を放ちつつ拡張する見えざる身体の感覚である。それが夢の中で、水に仮託されたあのようなイメージを展開させた。つまり、ぼくはこの夢の前日、日々の憂いや降り止まない試練から、ひととき解き放たれるような瞬間を味わったのだろう。そう、そうなのだ。全てが解決したわけではないにせよ、見えざる身体は、少しだけ祝祭に沸く瞬間を味わったのだ。

一方で、この夢の水は、タルコフスキー的な試練の水である。映画『ノスタルジア』では、郷愁という病に苛まれる主人公ゴルチャコフは、過剰な水に晒されている。雨の水がゴルチャコフが眠るホテルの部屋に滴り広がり、また彼は廃院の水の中を、詩を朗唱しながら彷徨い歩く。しかし、彼は狂人ドメニコに示唆されて、「水を渡る」決心をする。彼が蝋燭の火を灯し続けたまま水を渡りきった時、故郷の妻と息子の映像が彼の眼前に立ち現れる。そして、彼はいつしか雪の舞う故郷の家の前で飼い犬とともに並んで座っている…ここでは、水は、ゴルチャコフと故郷を隔てる橋のない川のようだ。彼は故郷への想いに駆られ、いつも水まみれになっている。

わが夢の中の少年少女が彷徨う廃墟の街と彼らの故郷を隔てているのもまた水である。彼らは、故郷へ戻るためにはこの水を通り抜けなければならないと思う。そして敢然と水に飛び込んでいく。

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