形象夢断章

物語としての流れも展開もない一枚の写真のような白昼夢を見ることがあるが、たいていは知らぬ間にうたた寝した瞬間や、気の抜けた意識の狭間に立ち昇った気分や思考、生理的身体感覚がひとつの形象に置換されたものに過ぎないと言える。それらは一瞬目の前を過ぎる瑣末な街角の風景と同じで、大抵は気にも止めずに、ぼくらはすぐにいつもの日常生活に戻っていく。しかしながら、その一枚の写真に目を凝らす時、思いもよらぬ発見や驚きに出くわすことがある。それら白昼夢を、ここでは形象夢と呼ぶことにしよう。

形象夢①
駅が遠くに見える。あれはよく知る自宅近くの駅なのか…駅ビルやロータリーがはるか遠くに見える。ぼくは、駅まで遠 いな、距離があるな、と思 っている。いつになったら辿り着くのだろう…

いつになったら辿り着くのだろう…常に視野に入っているのに、いつまでも目的の場所にたどり着けない焦燥や徒労感がうまい具合に形象化されているではないか。

夢の表現力。夢の芸術性に改めて畏敬の念を覚える。

そう言えば以前似た夢を見たことがあった。

その夢で、ぼくはまだ小さい息子と自転車で並走していた。近くのショッピングモールにふたりで行こうとしていたのだった。やがて、そのショッピングモールが彼方に見えてきた。しかし、その時目の前に野犬の群れが現れ、ぼくらの進路は阻まれた。と思うや、息子が大きく遅れ、はるかに後ろに退いていった…

何かに阻まれ、目的地にいつまでもたどり着けない夢。遠のく希望は、後退する息子のイメージに転置されている。駅やショッピングモールの形象は、乳と蜜の川が流れる約束の土地であり、あるいは、次の段階へと続く一里塚だろうけども、どうしてもそこに辿り着けない。それを阻む何かを越えることがどうしてもできない。

形象夢②
玄関は広く、上がり框や下 駄箱の下の空間が、キレイ に掃き清められている。京の町屋、という概念がイメ ージに重なる。

確かこの白昼夢を見る直前に、雑然とした思考の断片群に一定の方向性が与えられたのではなかったか。論理的に整然としてスッキリしたというか…

思考の乱れは夢の中で雑然とした部屋の情景に投影され、方向性を与えられた整然とした思考は、整然として片付けられた部屋の風景に置換される…よくあることだ。

形象夢③
たくさんの人たちが螺旋の 階段を下に降りていく。学生たちのような若者ばか り。自分もその中の一人だ った。

生来の、あるいは日常生活の摩耗によって欠損を抱えた生理的生命感覚が一部でも蘇生の感覚を得られた時、このような「たくさんの人たち」の形象が夢に現出する。それは時に祝祭夢となり、また橋の形象に接続されることがある。

学生のような若者たち、であることにも意味がある。彼らはまだ若く、希望に満ちているだろうし、諦めることをまだ知らない。生理的生命感覚における上昇性のメタファー。

また、下に降りていく、という方向性にも意味がある。新鮮(若者たち)な感覚を伴って、ぼくは生理的生命感覚の古層に降りていく。そこでこそ生来の、あるいは日常生活の摩耗によって凍結した細胞群が息を吹き返したのだ。再生の、新鮮ということのメタファーとしとの大勢の若者たち。

形象夢④
あたり一面茫茫の草原。人 の背を遥かに超えた葦のような草には、どれにも毛虫がたかっている。草を掻き分けてできた暗く細い道 で、ぼくは毛虫を恐れ、まるで敵陣に放り込まれた兵士のように身を硬くしてい る。

生理的生命感覚の前進と上昇が、生来、あるいは日常生活の摩耗によって毀損されている時、その阻害感は、必ず自らを何らかの方法で日常意識に伝えようとする。たいていは夢や、あるいは白昼夢として。または、精神的な疾患として。

形象夢⑤
子どもの産着に黒いシミがある。穢れを祓う神主のようにぼくは、それを手でバタバタと払う。

夢の形象における上昇と下降のベクトルについて。

この夢において上昇のベクトルを孕むのは「産着」であり、それを阻む下降のベクトルを孕むのは「シミ」である。「シミ」を払うという、夢の語り手の行為は再上昇のベクトルの心像表現である。

上昇と下降と再上昇。生と死と再生。これらは夢が常に主題としようとするものである。

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