土俵から引き摺り降りる

「約束のネバーランド」というアニメは、孤児院の子どもたちが実は人間よりもずっと強い化け物に脳を食べさせるために育てられている、という話だった。
優秀な子の脳は美味しいので、成熟しきる12歳まで待って「出荷」され、見込みのない子は6歳から出荷される。
その孤児院を仕切る「ママ」は、もともと同様に孤児院で育てられたが、才能を見込まれてママの道を選んだ女性。(何しろ頭が良くないと優秀な年長の子たちを監視しきれない)

そこに手伝いとしてやってきたシスター(彼女も孤児院出身だ)は、ママの座を虎視眈々と狙う。「孤児院の外では生きられない。だからせめてこの中で一番いい暮らしをしたい」と。

それを観て、はっとしたのは、ここまでじゃないにしろ、我々は誰かから選択肢を限定された上で、その中で最上を目指すように仕向けられているんじゃないか?ということ。
ある年齢になれば、車くらいは欲しい。ある年齢になれば、家を建てたい。
自分と同じくらいのクラスだと思っていた友達が持っているものを、自分も持たないと惨めに感じる。
それら全てが、そう仕向けられているだけなのでは。

Netflixで「ブラック・ミラー」というドラマを観た。このドラマは1話完結で、どれも映画のように内容が濃い。シーズン1-2の「1500万メリット」は必見だ。
人間がタワーの中で暮らしている。日中はひたすらバイクを漕ぐ。漕げば漕ぐほどメリット(タワー内の通貨)が溜まっていく。食事にはメリットを消費する。ジャンクフードも選べる。本物の果物は高い。部屋に戻ると壁一面に勝手にコンテンツが流れる。それらは、オーディション番組、ポルノ、レモン(タワー内で太って下層に落ちた人々)を撃つゲームなどだ。目をそらすことは許されない。チャンネルをかえるにはメリットを消費する。
こういうコンテンツを見続けると、自動的に、「もっと頑張ってメリットを貯めてオーディションを受けていい暮らしがしたい」とか、「レモンたちのことはいくら差別しても構わない」とか思い込む。「いい暮らし」といっても、実はタワーの上階で、以前に比べれば選択肢が増えただけなのだが。

ふと、テレビを見るのが怖くなる。すべてがそうではないけれど、半分以上のコンテンツが、購買意欲や階級意識を煽るようにできている。

「今話題のアレ、ついに買ったんだよー!」と目をキラキラさせて言う知人を見ると、何も疑わずに消費を楽しめるのが羨ましいなと思う。自分はそうなれない。誰かが用意した土俵から、今日も全力で引き摺り降りる。



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