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フリーターとフリーランスの間で

第9章 ぼくはこうして本屋になった(4)

 とはいえ、ぼくも最初からいきなり、本の仕事で食べていけるとは思わなかった。会社を辞めて最初は撮影隊の運転手、次にコールセンターでクレームの処理、その後小さな広告代理店でウェブサイトやバナーの制作、とお金のよいアルバイトをいろいろと渡り歩きながら、並行して東京・千駄木にある「往来堂書店」のアルバイトスタッフとして、四年ほど働くことになる。「文脈棚」で知られる、全国的に有名な小さな書店だ。その傍らで、まだ学生だった仲間と一緒に「ブックピックオーケストラ」という古本ユニットをつくって活動した。

 ちょうど会社を辞めたタイミングで面白い物件に住んでいた友人が留学することになり、後を継ぐ住人を探していた。都電荒川線沿いの、荒川遊園地前という駅が最寄りの、とても広い物件だった。このうちのひと部屋にぼくが管理人として住みながら、友人やその友人が出入りして様々に利用する多目的なスペースとして運営した。「アパートを編集する」というコンセプトで「モデルルーム」と名づけ、「ブックピックオーケストラ」の在庫を置きつつ、毎月飲み会を行ったり古本を売ったり、いろんな用途で場所を貸したりしていた。貧乏だったが、みんながいろいろ食べ物を持ち寄ってくれるので助かった。

 当初、ぼく以外のメンバーはみな学生で、ぼくだけがフリーターだった。なるべくいろんな場所に顔を出し、本に関わる仕事ならなんでもやりますと言っていたおかげで、少しずつフリーランスとしての仕事を回してもらえるようになる。後藤繁雄氏のスクールを本にした『僕たちは編集しながら生きている』(マーブルトロン/増補新版・三交社)に卒業生として掲載いただいたことをきっかけに、出版社のマーブルトロンから取材やテープ起こしの仕事をもらったり、当時NTT出版にいた現ミシマ社の三島邦弘氏の編集する本の素読みを手伝ったり、ポプラ社にいた友人が新雑誌のバナー広告をデザインする仕事を回してくれたり、とにかくそうやって出版業界の隅っこで、人から人に紹介してもらい、頼まれれば何でもやるというスタンスを続けた。少し文章が書けて、簡単なデザインやHTML/CSSのコーディングができる、若くて便利なフリーランスが、当時はいまより希少だったのだと思う。アルバイトを少しずつ減らしながら、そういう仕事を増やしていった。その途中で二五歳を迎えていたが、第二新卒として就職活動をするのはやめた。先は見えなかったが、なんとかやっていける気がした。

 自主的な活動のほうも、何でもやっていた。学生時代のクラブイベントがきっかけで誕生した「ニギリズム」という創作おにぎりのケータリングユニットをやったり、友人が立ち上げた影絵の劇団を手伝ったり、本をモチーフにしたアート作品の制作を手伝ったり、その他さまざまな同世代の友人たち、そのまた友人たちの活動に携わった。割のよい仕事に絞り、週三日くらいで最低限の生活費を稼ぎながら、大半の時間はそれらの自主的な、どうなるかもわからない活動に割いた。

 当時はどれが何の役にたつかなど考えなかったけれど、どこに所属するでもなく何者かもわからない、貧乏で先が見えなかったこの二〇〇三年から二〇〇七年くらいまでの間に、同じくさまざまな分野で模索している同世代の人たちと過ごしたことが、いまの自分をつくったと思っている。その間に「ブックピックオーケストラ」が活動の中心となっていき、後にひとりで「NUMABOOKS」を名乗ることになる。

※『これからの本屋読本』P299-301より転載


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