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【短編小説】鈴波アミを待っています

 21時45分、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。今日は一番のヤツで優勝することにしよう。自宅で飲酒をするのは、実に半年ぶりだ。元々アルコールに弱い体質なのに加えて、俺は酒というものが、正確に言うと、酔っぱらいというものが好きではなかった。
 しかし、今日だけは特別な日。2月24日――盆でもなければ正月でもない、この何でもない日を、俺は全力で祝福しなければならない。今日は、推しの活動1周年記念日なのだ。

 推しと言っても、彼女はアイドルではない。俺の推し――鈴波アミはVtuberだ。バーチャルな肉体で動画配信などの活動をするそれは、何年か前からインターネット上のブームになっていて、彼女はそんな現象の片隅で産声を上げた配信者のひとりだった。
 いまの俺にとって鈴波アミという存在は、まさに生きる糧と呼べるような大きなものになっている。しかし、よくゴシップメディアが嗅ぎ回っているような、中の人が誰とか、本業が何とか、そんなことは全く知らないし、興味がない。鈴波アミは鈴波アミとして存在し、それでいて、俺を含む多くの視聴者に慕われていた。

 ほとんどのVtuberは自分の視聴者に何かしらの呼称――ファンネームを付けて区別する。それが一般的な慣例となっていて、ファンであることを自覚した視聴者は自らそのファンネームを名乗るようになる。しかし、鈴波アミは自分のチャンネルの視聴者のことを「みんな」と呼んでいた。俺たち視聴者は、その「みんな」の一部であることにシンプルな喜びを感じている。そんな人種だ。

 21時55分、まだ放送が始まっていないライブ配信ページ、通称「待機所」のチャット欄にコメントを打ち込む。

<待機>

 それだけのことだけれど、これはある種の儀式だ。待機所のチャット欄というものは、視聴者にも配信者本人にもよく見られている。ここで頻繁に見かける者は名前を覚えることもあるし、SNSで相互フォローの関係になることもあった。このチャット欄はある種のコミュニケーションの場となっていて、どの時間帯に覗いても、常に誰かしらが書き込みを行っていた。配信者によっては専用のファンコミュニティが存在する場合もあるが、鈴波アミはそれを作ることを禁じていた。どうやら、ファンの間で情報格差が生まれるのを避けたいということらしい。俺たちはそれに素直に従っていた。

 21時59分、動画プレイヤー左下のカウントダウンの表示が切り替わって、「鈴波アミを待っています」というテキストに変わる。
 <待機>のコメントがずらずらと流れている。俺は他に開いていたウィンドウを全て閉じて、じっとその瞬間を待つ。
 最初に打ち込むコメントは、もう既に決まっている。鈴波アミは、毎晩必ず22時ジャストに配信を開始し、第一声は決まってこう言う。
「おまたせ!」
 それに対して、俺たちはこう返す。
<全然待ってないよ>
 この流れが、いつの間にか彼女固有の挨拶として定着していた。彼女の言う「おまたせ!」は、待機所のチャット欄でたむろしている俺たちに向かって言っているのだろうけれど、そんな俺たちは<全然待ってないよ>と返すのだ。本当はずっと待っているのに。そんなちょっとした一体感と共に、鈴波アミの配信が始まったというスイッチが入る。

 22時00分、彼女の配信は、始まらなかった。


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 うーん、回線や機材の不調だろうか? あるいは、何か特別な企画を行うための準備に手間取っているということも考えられる。何と言っても1周年記念日だ。だから、大した問題とも思わずに、俺は呑気にチャット欄を眺めていた。

<始まらんな>
<何かトラブルかな?>
<ゆっくり準備していいよ>
<投げ銭したいんだが何で機能オフにしてるんだ?>
<そういう人だから>
<鈴波アミすやすやでワロタ>
<流石にこんな記念配信で寝坊は無いだろ……とも言い切れないな>
<何も報告が無いのはおかしくないか?>
<準備で力を使い果たした説>
<遅刻ってこれまでにもあったっけ>
<いや、俺の知る限り一度もない>

 23時30分、流石にこれはおかしい。何の知らせも出ないまま時間だけが過ぎていき、とうとう日付が変わろうとしていた。嫌な汗が止まらない。心臓が早鐘のように打つ。涙が出そうになる。何か、何でもいいから情報が欲しい。震える手でマウスとキーボードを操作して、彼女と繋がりがあった人物の投稿を、祈るような気持ちで見て回る。
<どうしよう、連絡がつかない……通話もメッセージもだめ>
 そう書き込んでいたのは、プロの3Dモデラーとして活躍しているVtuberのモエキウロコだ。彼女は鈴波アミと最も親しかった配信者で、何かヘルプが行くとしたら彼女だと思うのだが、どうやら俺たちと同じ状況らしい。

 鈴波アミの配信は始まる気配すら見せず、そのまま夜が明けて、朝日が登ってきた。動画プレイヤー左下の、「鈴波アミを待っています」のテキストを一晩中睨みつけているが、それは微動だにしない。気が付くと俺は、ぼろぼろと涙を零していた。缶ビールはまだ開けていない。その完全に常温になってしまった物体を、ソファに投げつける。立ちくらみがして、倒れそうになった。頭痛、吐き気。出社どころか、上司に連絡する気力すらない。こんな精神状態で仕事なんてやっていられるか。

 昼頃になって、ウェブ系のメディアが続々と記事を出し始めた。それを読んで、自分の置かれた状況を悟る。

<有名Vtuber「鈴波アミ」の突然の失踪に、彼女を心配する声が続々と投稿される事態となっている。鈴波アミとは、昨年の2月24日に活動を開始したVtuberで――>

 失踪。俺の推しは失踪したのか。卒業でも引退でもなく……なんだよそれ。どうしろって言うんだ? 他の連中は彼女のSNSの直近の投稿に対して<大丈夫ですか?><ずっと待ってますよ!>などとリプライをぶら下げているが、何か意味のある行動とは思えない。じゃあ何ができるのかと言ったら、何もできないんだけれど……。
 それにしたってあんまりだ。一番大切な人の、大切な日に、それを失うなんて。この行き場のない感情を、どう処理しろと言うのだ。俺は誰に対して怒ればいい? 誰に対して祈ればいい? 誰に、誰が……。
 待機所のチャット欄に目をやると、ぽつりぽつりとコメントが流れていた。中には俺たちをからかうような書き込みもあったが、即座に多くの視聴者によってブロックされ、それは見えなくなった。
 何か有益な情報が流れてこないかと、じっくり目を通すことにする。

<頼むから帰ってきてくれ>
<もう吐きすぎて何も出ない>
<一度寝て起きたら夢ってことにならないかな>
<それはもう俺が試した>
<俺たちはこのまま待ち続けるのか?>
<それなんて忠犬ハチ公?>
<学校休んだ>
<いま自殺の方法検索してる>
<それは流石に気が早い>

 ダメだ。ここにいる奴らも、俺と何も変わらない。中にはそこそこ名の知れたVtuberも紛れているが、やはり状況は同じだった。

 そのまま夜になって、とうとう24時間が経とうというその時、あるひとりの視聴者がおかしな提案をした。

<いまちょうど1年前の配信アーカイブ見返そうと思ってるんだけどさ、ここにいるみんな、やること無かったら一緒にどうよ?>
<お、同時視聴ってやつか>
<時間ってどうやって合わせるの?>
<22時ジャストに再生開始で1年前と同じになる>
<そういえば開始時間って初回からずっと変わってないんだな>
<1回だけあれがあったけどなww>
<あれは笑った>
<ナイスアイデアじゃん>
<どうせ暇だから付き合うよ>

 俺は、その企画に乗っかることにした。そして、俺からもひとつ提案をする。

<どうせなら戻ってくるまでの間、毎日22時に集まって、その日の1年前の配信見ようぜ>
<それいいな通うわ>
<俺も>
<天才か?>
<古参勢は当時のこととか教えてほしい>
<何でも聞くがよい>

 鈴波アミは、ごく一般的な個人Vtuberとしてデビューした。活動初日の2月24日は自己紹介の短い動画を投稿し、翌日の初ライブ配信――いま俺たちが見ているそれには、20人程度の視聴者が集まった。俺もその中のひとりだったわけだが、どうやって彼女のチャンネルまで辿り着いたかは覚えていない。ただ、何百というVtuberの配信を渡り歩いてきた俺は、すぐさま確信した。この子は伸びる、と。
 何と言ってもトークが面白い。まるでお笑い芸人のラジオ番組を聞いているような感覚でありながら、決して多いとは言えない視聴者のコメントを的確に拾い上げ、どんどん話を膨らませる。アドリブで喋っているとは思えないほどの綺麗なオチをつけ、流れるように次の話題へと移っていく。
 また、自作だという2Dのモデルは素朴で可愛らしく、チャームポイントの三角形の髪留めは、シンプルでありながらも存在感があって、いいアクセントになっている。モデルの可動域や揺れものの動きも申し分ない。
 更に言うと、声も綺麗だ。

 俺はその初配信の直後に、軽い気持ちでSNSに1件の投稿をして、彼女のことを褒めた。すると、すぐさま鈴波アミ本人からリプライが返ってきて、感謝の言葉と、俺のコメントによって助けられたという旨が書いてあった。俺はその時に感じた、照れくさいような、誇らしいような、そんな感情をずっと引きずり続けて、いつの間にか彼女は俺の推しと呼べる存在になっていた。

<この頃って本当に人少なかったんだな>
<選ばれし20人じゃん>
<この業界は供給が多過ぎて新人は普通埋もれる>
<まぁ1週間後には500倍に増えるけどな>
<マジで?(誰か解説お願いします)>
<仕方ねぇな教えてやる(語りたいだけです)>

 それは、鈴波アミの活動が始まって8日目の夜のことだった。彼女が配信ページのリンクをSNSに投稿する際に、どういうわけか、あるアカウントにメンションが付いていた。100万人のフォロワーを抱える漫画家、鳥川あきらの公式アカウントだ。きっと、彼のプロフィール画面を開いた状態で書き込んでしまったのだろう。それはちょっとした笑い話になるようなミスだったが、そこで奇跡が起きた。なんと、鳥川あきらがその投稿を引用して、<お邪魔しますね>と反応したのだ。

 そんな中始まった配信で、一斉に押し寄せた1万人の視聴者と、鳥川あきら本人がチャット欄に現れた。そこで、鈴波アミは意外なムーブを見せた。
 彼女は、鳥川あきらを含む全ての視聴者を同列に「みんな」として扱い、普段通りにマイペースな雑談を始めたのだ。彼女は好きな音楽について、映画について、花について、コンピューターについて、宇宙について、そして死生観や人生論に至るまでをほとんどノンストップで捲し立てた。序盤こそ多くの視聴者が<鳥川あきらに触れろ>と突っ込みを入れていたのが、徐々に誰も指摘しなくなり、最終的には全ての視聴者がそのトークに圧倒され、感心し、ただただコメントで相槌を入れるだけの存在となっていた。
 彼女はその配信を、こんな台詞で締めくくった。
「そういえば、好きな漫画家さんについて話してなかったね。でも、今日はもう遅いから、それはまた明日聞きにきてね!」

 それが天然なのか、計算なのか、いまとなってはわからない。しかし、肝心の鳥川あきら本人に関しては、かなりの好印象を持ったらしかった。
 配信が終わった直後、彼は鈴波アミの初となるファンアートイラストを投稿した。さらにその数時間後には、彼と親しい有名作曲家のすぎうらこういちが、配信用にとオリジナルのBGMを贈った。彼もまた、鈴波アミの配信を見ていたらしい。

 この一連の流れは、多くのウェブメディアによって取り上げられ、彼女は一夜にして有名Vtuberとなった。
 ここまで見事なバズのコンボが決まるなんて、流石に誰も想像していなかった。俺たち視聴者は一日中騒ぎ立てたが、鈴波アミ本人はというと、それを大袈裟に自慢するでもなく、恐縮して縮こまるでもなく、ただただ丁寧に感謝の気持ちを述べるにとどまった。

<どうやって育ったらこんなムーブできるの?>
<本当に喋ることに特化してるよな>
<この時の対応で惚れた>
<リアルタイムで観測できなかったの悔しすぎる>
<それってヤラセとかじゃないの?>
<殺すぞ>
<すみませんでした……>

 彼女は博識で、頭の回転が速く、真面目で明るい性格だった。しかし時折、危なっかしいと思えるようなヘマをすることもあった。SNSの誤爆もそうだが、配信を止め忘れてそのまま誰かと通話を始めてしまうこともあれば、予定より数分前に配信を開始してしまい、それに気付かずに日々行っている配信前のルーティンを垂れ流してしまったこともあった。そんな事態が発生する度に、彼女は照れながら事情を説明し、更に詳しいことまで話して聞かせてくれる。そんなギャップ要素とオープンで飾らない性格は視聴者の心を鷲掴みにし、彼女はどんどんファンを増やしていった。そして彼女は、いつの間にかVtuber業界の中心とも呼べるような存在へと至る――まさに、シンデレラストーリーだ。

 それほどの人気があるにも関わらず、彼女はリアル会場のイベントには一切出演しなかった。ただ、最高に盛り上がるようなビデオメッセージをいつでもどこにでも送っていた。オフラインコラボも誰ともせずにいて、彼女は本当にバーチャルにしか存在していないかのようだった。しかし、それでいて等身大の女の子でもあった。彼女の魅力の正体は、その危うい存在感にあったと、俺は思う。

<さて>
<ついに来たな>
<もう何回見たかわからんよ>
<この配信笑いすぎて狂うかと思ったわ>
<「伝説の集い」ってやつだな>

 彼女が活動開始半年の節目で行った3D化記念配信は、もやは伝説とまで言われている。これまで2Dのモデルで活動していた彼女に、プロモデラーVtuberのモエキウロコがオリジナルの3Dモデルを仕立てた。そのお披露目として、彼女は「NagisaVR」――通称「NVR」というソーシャルVRプラットフォームを使った配信をしたのだけれど、これが凄まじいものだった。

 モエキウロコがひとりで作ったという「鈴波アミ専用ワールド」には、鈴波アミのこれまでの活動にまつわるモチーフが散りばめられ、そこはまるで彼女の脳内を具現化したような空間だった。また、円形の壁には巨大な360度スクリーンがついていて、俺たちが書き込んだコメントがリアルタイムで流れるという仕組みになっていた。
 彼女はその最高のステージで3Dモデルの身体をお披露目して、それからいくつかの定番企画と、モエキウロコが自作したというVRゲームを楽しんだ後、ちょっとした音楽ライブを開催した。
 それで終わりかと思いきや、明らかにその場で思い付いた突発的な企画として、Vtuber限定の「凸待ち」が始まった。

 NVRには「凸機能」といって、他人のいる空間にワープし、一緒に配信などができるシステムが実装されているのだが、彼女のいるそのワールドには、有名無名問わず滅茶苦茶な数のVtuberが凸してきた。その空間に集まったVtuberは最終的に100名を超え、このままでは収集がつかないというところで、思いがけない出来事によって配信は終了した。NVRのサーバーがダウンしたのだ。
 その、これ以上はないであろうオチに、当時のチャット欄はかつてないほど賑わい、そのお祭り騒ぎは永遠に続くとさえ思えた。

 もう俺は、彼女の配信さえあれば幸せだった。
 この残りの人生は彼女の為に生きよう。そんなことを、当時気まぐれで買った缶ビールを飲みながら考えていた。

<段々NVRでの配信が増えてきたな>
<2Dの方も俺は好きだったけどね>
<わかるマン>
<ここ久々に来たけど人少なくね?>
<あっ……>
<そこに触れてはならない>

 あれほど賑わっていたチャット欄も、いまではたったの10人ほどしかいない。鈴波アミ専用として運用されていたSNSアカウントも、その殆どが活動を停止しているか、他の何かについて語るようになっていた。それは、自然で正常なことに思える。あまり考えたくはなかったが、いつまでもこんな待機所のチャット欄で馴れ合っている俺たちの方が異常なのだ。

 Vtuberに永遠はない。そんなことはわかりきっていたはずなのに、あんなにも突然に終わりが来るなんて、お別れの言葉も言えないなんて、考えたこともなかった。
 俺は、本当に彼女のことを全力で応援できていただろうか? いや、俺は彼女に何もしてあげられなかった。絵を描くことも、曲を作ることも、面白いお便りを送ることも、宣伝も、支援も、何一つ満足にできなかった。
 何より俺は、彼女のファンであることを心の何処かで恥じていた。家族にも、リアルの友人にも、そのことは隠していたし、SNSのアカウントですら、専用のものをわざわざ用意して、その狭いコミュニティの中で喚き散らしていただけだ。
 俺は、鈴波アミというコンテンツにしがみついて、自らの欲求のみを満たし、文字通り自己満足していただけの存在なのだ。


 彼女がいなくなって9ヶ月が経った。それでもずっと待機所で同時視聴を続けている俺たちの様子が、とある大手まとめサイトによって面白おかしく取り上げられ、多くの愉快犯がチャット欄を荒らしにきた。

【悲報】9ヶ月前に失踪したVtuberを未だに待ち続けているオタクたちが「集団幻覚を見ているよう」と話題にwwww【狂気】

<ここが社会の最下層か>
<ネットの闇>
<Vtuberとかくっさwww>
<オタクくんさぁ、そろそろ現実見ようよ>
<バチャ豚キモ>
<お前の母ちゃん泣いてたぞ>
<ニートのたまり場になってて草>

 俺は、どうにかその居場所を守ろうと必死になって反論のコメントを打ち続けたのだけれど、それが完全に裏目に出た。俺のSNSから個人情報が特定され、更には、同人誌即売会の打ち上げで撮影した顔写真までもが全世界に晒された。俺という存在は、完全にインターネットのおもちゃと化した。
 その日だけで2000人のフォロワーが増えたが、何も嬉しくない。こいつらは、みんな俺が何か面白い目に合わないかと見張っているだけの、ただのウォッチャーだ。フォローなんて、してくれるものか。
 その日をもって、「みんな」の待機所は解散した。そして、私生活を全て暴かれた俺は、勤めていた会社を辞め、今より更に安いボロアパートへと引っ越した。


 新しい仕事を探しつつ合間にインターネットを見ていると、本当にふとした瞬間に、過去の配信の切り抜きなどで鈴波アミの姿を見かけることがあった。そんな時に強く感じるのは、懐かしさよりも、息苦しさの方だった。

 なかなか再就職の決まらない俺は、現実逃避の先として、NVRに入り浸るようになっていた。このヘッドセットは、鈴波アミが3D空間での配信を始めた時に購入したものだ。ひょっとしたら、いつか俺も彼女のいるあのワールドに凸できるかもしれない。そんなことを思って、ややこしいセッティングを済ませておいたのだけれど、そんな機会が訪れることは無かった。

 いまの俺の生きがいと言えば、NVR初心者の案内役だ。実生活で何の役割も担っていない俺は、その罪悪感を覆い隠すためか、NVR内での奉仕活動に力を注いでいた。日本人ユーザーが最初に訪れるワールドというのがいくつかあって、俺はそこに常時待機している。
 例えば、あそこの大樹の下でうろうろしているのが入りたての初心者だ。デフォルトのロボットアバターを纏っているし、IDが明らかにゲストユーザーに割り当てられたランダムな文字列なので、間違いない。ロボットの彼は、メニュー画面を広げるような動作をしながら、何かぶつぶつと呟いている。こういう時こそ、俺の出番だ。
「何か探してますか?」
「あの、ログアウトしたいんですけど……」
「ログアウトなら、まず"Settings"を押して、左下にある"Exit"ってボタンですね」
「あ、ほんとだ。ありがとうございます! 助かりました!」

 ……待って。
 いや、うそだろ、マジでちょっと待って。
 マイクの音質は悪いし、声のトーンも普段よりずっと落ち着いている。しかし、間違いなく彼女だ。鈴波アミだ。もう2年近く毎日聞き続けたこの声を、間違えるはずがない。
 一体どういうことだ? 尋ねていいものだろうか。いや、ここは訊いておくべきだろう。訊かないでどうする。

「あの、ちょっと待ってください。こんなところで、何してるんですか?」
「えっと、何って、初めてここに来て、散歩していただけですが……すみません、何のことですか?」
「初めて、ですか?」
 あれ、人違い? いや、そんなはずは……。
「あ! もしかして、どこかで会ったことありましたか?」
「いやいや、そんな、全然……」
 会ったことはないが、君は俺の推しだ。というか、どうしてこんなにも会話が噛み合わない。
「そうですか……すみません、なんか変なこと言っちゃったみたいで」
 少し考えるような間があって、それから、彼女はゆっくりと話し始めた。
「あの、実は私、記憶障害を患っていまして」
「記憶障害?」
「はい。自宅のマンションでそこそこ大きな火事があったんですけど、私って足が悪くて、それで逃げ遅れちゃったみたいで……煙を吸いすぎて倒れていたそうです。それで、昔のこと何も思い出せないんです」

 推しと会話をしているという興奮と、入ってくる情報の深刻さで、俺の脳内は滅茶苦茶になっていた。火事、そして記憶障害。そんなに大変な状態にあったとは……。
 とにかくここは、ひとつずつ状況を確認しなくては。

「昔の知り合いって、連絡取れないんですか? SNSのフォロワーとか」
「それが、火事の時にスマホもパソコンも全部ダメになっちゃったんです。お見舞いには誰も来ないし、私って本当に孤独だったみたいで。ただ……」
 彼女は両手を大きく広げて、その場でくるくると一周する。
「このVRっていうのは、良いものですね。今日こうして初めて体験してみて、物凄く感動しちゃって。こうやって人と話せるし、足が悪くても歩き回れるのって、最高に素敵です。ここにある全部のワールド見て回りたいですね」
「それだったら……」
 その様子をライブ配信しませんか、と続けようとしたところで、彼女の方から知らない女性の声が聞こえてきた。
『早く来てー』
「はーい今行く! すみません、今日はもうおしまいにしますね。初対面なのに、話聞いてくれてありがとうございました。またどこかで!」
 そう言いながら、彼女は再びメニュー画面を広げるような動作を始めた。まずい、このタイミングを逃したら、もう二度と会えないかもしれない。とにかくフレンド申請を……いや、ゲスト状態のユーザーとはフレンドにはなれない。それならば――。

「あなたの名前は鈴波アミです! 鈴波アミ! 調べてみてください!」
 彼女は少し困惑したような声で、「わかりました」とだけ言ってから、ふわっとした光に包まれて、姿を消してしまった。

 それから俺は、しばらく呆然としていた。形はどうであれ、あの鈴波アミがこんなにも近くにいて、確かに彼女は生きていた。それだけでも十分な収穫にも思えるが、それと同時に、事態の困難さに目眩すら覚える。記憶もログイン情報も失っている彼女がVtuberとして復帰するためには、何が必要だろう。


 あれから3日が経った。鈴波アミは、まだインターネット上に現れていない。自分が誰かわかったら、仲の良かった他のVtuberにでも相談できるはずだが、どうやら誰も連絡は受けていないらしい。考えられる可能性はいくつかあるけれど、彼女から直接聞くまでは、何もわからない。
 俺から何か発信するべきか? いや、ここは少し慎重になったほうがいいだろう。もし、またあの時のように炎上なんてしてしまったら、それこそ彼女の戻ってくるべき場所が無くなってしまうかもしれない。
 いまの俺にできることは、とにかくもう一度彼女を見つけ出して、話を聞いてもらうことだ。アバターや名前のIDは、きっと変わってしまっている。それでも、あの声だけは、絶対に忘れない。忘れるわけがない。

 それから俺は、文字通り24時間をNVRの中で過ごしていた。
 誰かとお喋りを楽しむわけではない。ワールド一覧画面から手当り次第に知らないワールドに入室し、その場にいる全員の声を確認したら、即座に次のワールドに飛ぶ。これを、延々と繰り返す。NVRのワールドは、ひとつにつき複数の「パラレルワールド」が存在していて、全く同じ空間でも、中にいる人間は違っている。その全てを、虱潰しに探す。探す。探す。
 眠るときもヘッドセットを付けてログインしたままだ――彼女の方から見つけてくれるかもしれないから。そして、起きたらまた探し始める。
 これだけ探しても、まだ全てのワールドは巡れていない。どれだけ広いんだこの世界は。人だって、いくら何でも多すぎる。しかも、ほとんどのユーザーが外国人で、言葉が通じない。
 それでも、そうしている他なかった。何もしないで待っているだけなんて、もううんざりだ。俺が、彼女を探し出すんだ。この俺が――。


 ……なんだこのワールドは。
 目の前には、何処までも高くそびえる山――というより、ただの崖に近い。頂上は全く見えず、どのくらいの高さがあるのか検討もつかない。しかし、どうやら登れるようにはなっている。ワールド内の人数は「2」で、ここにいるのは俺だけ。つまり、この先の遥か上の方に、誰かいるのだ。
 引き返そうかとも思ったが、「もし彼女だったら」という可能性が脳裏にチラついて、どうにもならない――実際に登ってみて、確認しなければ。
 崖に手のひらを付け、中指でコントローラーのグリップボタンを押す。そのまま身体を引き上げて、もう片方の手で、更に高い位置を握る。これを、繰り返すだけだ。

 ――あれからどのくらい時間が経っただろう。ヘッドセットを被ったままずっと上の方を向いているから、ひたすらに首が痛い。それに加えて、コントローラーを持つ手が軽く痙攣してきた。額から汗が滴るが、それを拭っている暇はない。とにかく、登り続けなければ。もう、他に何をやればいいのか、わからないんだ。

「うおっ!」
 急に視界の中央にテキストが現れて、思わず声を上げてしまった。
<右コントローラーとの接続が切れました>
 え、何で。充電ケーブルは繋ぎっぱなしだし、特にぶつけたりもしていない。そんな理不尽なことってあるかよ。あるな。うん、あるよ。
<左コントローラーとの接続が切れました>

 やけにゆっくりと落下しながら、考える。
 俺は一体何をしているのだろう。
 彼女にもう一度会って、それでどうする?
 あの時会った彼女は、「鈴波アミ」では無かった。
 本当に、ただの女の子だったんだ。
 「もう一度Vtuberになってください」って説得するのか?
 それとも、交際でも申し込むか?
 推しって何だ。
 Vtuberって何なんだよ。
 俺は彼女にとって、ただの1視聴者という数字に過ぎない。
 ただのオタクに、何ができる。
 こんなことになるのなら、いっそ――。

「ちょっと君」
 突然後ろから声を掛けられて、振り返る。しかし、誰もいない。
「あれ?」
「下だよ下!」
 そこにいたのは小さな妖精……いや、魔女のようだった。声から察するに、中身は40代くらいのおじさんだろう。それにしても身体が小さい。あとかわいい。
「結構高いところまで行ったね〜疲れたでしょ!」
「どうも……あの、いつから見てたんですか?」
「君がここに入ってきたとき」
「え」
 このロリ魔女おじさんの言っていることが正しければ、最初から上には誰もいなかったということになる。どこまで間抜けなんだ、俺は。

「君、ずっと誰か探してるでしょ。ちょっとした有名人になってるよ」
「まぁ、そうですけど……」
 これまでにも、他人から声を掛けられることは何度かあった。しかし、協力しようとしてくれる者は、誰一人としていなかった。そりゃそうだ。こんな頭のおかしい男の無謀な旅路に付き合うような義理も道理も、あるはずがない。
「君ってさ、童貞?」
「は?」
 何を言い出すんだこの親父は。
「女の子ってのはね、追うと逃げるんだよ。待たなくちゃ。モテる男ってのはさ、待ち伏せて狩るのが得意なんだ。わかるかい?」
 その台詞には確かな説得力を感じて、一瞬思考が停止した。追うべきではない? 待って狩る?
「君さえよければ、ワシの同盟『ナンパフォース』に入れてあげるけど。いい名前でしょ。なんたって、日本一のVRナンパ師が集っている同盟だからね!」

 ――この瞬間、頭の中で何かが繋がる音がして、いまの自分にできること、やるべきことが、はっきりとわかった。
 NVR、完全に理解した。

「いえ、結構です。アドバイスありがとうございます」
「あら残念……まぁ頑張りたまえ。童貞くんよ」
「その呼び方止めて頂けます?」
「いいじゃないか。ワシだってこの歳で童貞よ。だからほら、ロリっ子魔女になっちゃった」
「なるほど」
 適当に相槌を打ちながら、俺はメニュー画面を開き、NVRからログアウトした。コントローラーの接続は、いつの間にか元に戻っていた。

 ヘッドセットを外した俺は、プロモデラーVtuberのモエキウロコ宛にメッセージを書き始めた。彼女だけは、持っているはずなんだ。鈴波アミの魂が宿っているべき3Dモデルと、それから、彼女が毎日多くの時間を過ごした、あの専用ワールドのデータを。
 まずは丁寧に挨拶をして、それから、鈴波アミをNVRで見かけたこと、彼女は記憶を失っていることを告げる。そして、協力してほしい旨と計画の全容を書き起こした。あとは返事を待つだけだが――。
<うおおおおおおおおお>
 秒速で予想外の反応が帰ってきた。なんだこれ、ずっと悲鳴のような文字列を連投している。どう反応したらいいんだ?
<あの……>

<すみません>
<取り乱しました>
<もちろん協力します。協力させてください!>


 翌日、そのワールドはNVR上に一般公開されることになった。
 新たに名付けられたワールドの名称は、「鈴波アミを待っています」
 そう、ここで彼女のことをただ待っていればいいのだ。NVRは全世界で流行しているから、日本語のワールド名というのはそれだけでかなり目立つ。
 ただ、ひとつ問題があって、それを彼女の目につくところに置かなければいけない。それはどこか――ワールド一覧画面のトップ、つまりランキングの1位だ。その画面の一番いいところに、「鈴波アミを待っています」を持ってくる。そのために俺たちは、世界中のどのワールドよりも多くのユーザーを、この空間に集めなければならない。

「きっとなんとかなりますよ!」
 モエキウロコは前向きだった。
 一方の俺は、昨日よりも少し冷静になって、不安にかられていた。
「でも、この計画って本当にただの思いつきでして……何の保証もないですよ」
「いいえ、凄くいいですよ。これ!」
 本当にそうだろうか? モエキウロコが肯定する度に、逆に不安が増してくる。彼女の底抜けに明るいキャラは、根暗な俺には眩しすぎるのかもしれない。
「ほら、この音楽。わかりますよね?」
「そりゃ、もちろん」
 このワールドで流れているBGMは、あの日すぎうらこういちが作ってくれた、彼女だけのオリジナルトラックだ。
 モエキウロコは説明を続ける。
「視覚情報と聴覚情報。それに、自分の本来あるべき姿。これだけ揃えば、何かしら大きな作用を脳に与えることができます。VRって、体験そのものなので、ただの映像よりも強い刺激になるはずなんです。実際に精神科の医療現場でも使っているところがありますし、記憶障害にも、きっと効果があると思います。最高に最適なアイデアですよ!」
「その、脳への刺激うんぬんって、ホントですか?」
「私、こう見えても元医療従事者なので」
「初耳です」
「いま考えた設定です!」
 なんだそれ。俺は思わず笑ってしまい、吹っ切れたような気分になった。
 こうなったら、やれるだけやってみよう。もしそれでダメだったら……いや、ダメだった時のことなんて考えている余裕は無さそうだ。そろそろ動き始めなければ。

 状況の説明と作戦内容をまとめて、モエキウロコのSNSアカウントで投下する。彼女はそれに続けて、できるだけ多くのVtuberや視聴者にも協力してほしいと訴えた。
 一方の俺は、メッセージ機能を使って、フォロワーに片っ端から声を掛けて回る。一度定型文を書いてしまえば、後はコピー&ペーストを繰り返すだけの作業だ。こんなもの、NVRで1日中走り回っていたのと比べれば、なんの苦労でもない。家族にも、友人にも、誰だかよく思い出せないやつにも、連絡のつく者には全員メッセージを送った。
 それから、これは完全に予想外だったが、俺が炎上したあの日にフォローしてきたやつらも、結構な人数が投稿の拡散を手伝ってくれた。なんだ、おもちゃになったかいがあったな。

 次第に、「鈴波アミを待っています」は賑わってきた。しかし、ワールド一覧画面の上位に持っていくには、まだまだ人数が足りない……というのに、徐々にワールド全体が負荷によって重たくなってきた。
 この負荷を軽減する仕組みこそがパラレルワールドなのだけれど、誰も移動したがらない。そりゃそうだ。みんな、彼女が来た時には同じ空間にいたいのだから。しかし、このままでは――。
 突然、モエキウロコが大きな声を出した。
「みなさん聞いてください! いまから特製のアバターを配布します。負荷軽減のために、物凄く軽くなっています。みなさんは、この1ポリゴンのモデルに着替えてください」

 モエキウロコはNVRのアバター送信機能を使って、俺たち「みんな」のために用意したであろうモデルを配って回った。それは、鈴波アミのチャームポイントである三角形の髪留めそのものだった。この超軽量モデルなら、かなりの人数が集まっても大丈夫だろう。
 また、彼女の指示で、入室しているほとんど全ての者が音声チャット機能をオフにした。その代わりに、ワールド内に設置されているテキストチャットを使って会話をする。これはモエキウロコが以前実装していたものを少し改造した機能で、各々の手元で打ち込まれたテキストが、ワールドの壁に設置されている360度のモニターにずらずらと流れていく仕組みになっている――つまりこれは、あの"いつもの配信コメント"を再現したものだ。

<やべぇ、盛り上がってきたな>
<色んなVtuberが動画とか上げまくってる>
<このBGM懐かしくて涙出てきた>
<やはりすぎうらこういちは天才>
<まだ全然人数足りないよ!>
<お前ら、知り合いでも恋人でも誰でもいいから人連れてこい。VR機器無くてもデスクトップモードでログインできるし、アカウントも作らなくていい>
<恋人って何?>
<すまん俺にもわからん……>

 しばらくすると、ガスマスクを装備した小柄な男がワールドに入ってきて、一声挨拶をした。
「お邪魔しますね」
 この姿はよく知っている。漫画家の鳥川あきらだ。

<神絵師がきた>
<神絵師とかいうレベルじゃないから>
<お、ファンアート1号のおっさんじゃん>
<新作面白かったです!>

 鳥川あきらは、手元で何かを操作するような動作をして、こう言い残して出ていった。
「拡散希望です」

 彼が公式アカウントで投稿したそのイラストは、インターネットには似つかわしくないほど見事な作品だった。このいつものワールドを背景に、三角形の髪留めの姿をした「みんな」がいる。そして中央には、俺たちの方に歩いてくる鈴波アミの後ろ姿。この短時間で、ここまでの作品を仕上げられるものなのか。
 投稿時に添えられたテキストは、たったの1行だけ。

#鈴波アミを待っています

 それが、爆発の瞬間だった。ハッシュタグ #鈴波アミを待っています は瞬く間に国内トレンドを駆け上り、やがて世界トレンドをも制した。
 あの日、俺たちを散々な目に合わせた大手まとめサイトが、そのタイミングで記事を投下する。

【全力】失踪Vtuberの「鈴波アミ」がNVRに出没!?みんなお前のことを待ってるぞ!!鳥川あきらまで参戦するとかwww【集合】

<なんだよ、話題になれば何だっていいのか>
<あれはそういうものだから>
<今回ばかりはファインプレーと言わざるを得ない>
<アフィにもすがりたいもんな>
<過去の敵との共闘とか激アツ展開じゃん>
<物は言いようだな>

 その時、俺宛に新着のメッセージが届いて、開いてみるとNVRの運営アカウントからだった。

<私はあなたを知っています。サーバーの強化によって、それは今日は絶対に落ちません。私はそれを落としません。あなたも頑張って>

 どうやら翻訳アプリを使って書いたらしいが、言いたいことは100%伝わった。その直後、ワールド「鈴波アミを待っています」は、ランキングのトップに躍り出た。

<世界1位きたあああああ>
<もうこの勢い止まらないだろwww>
<知ってるVtuberだらけで草>
<みんな三角アバターだけどな>
<この位置をキープすんぞ!!>
<よっしゃああああああああ!!!!>
<お前ら落ち着け!>
<はい>
<うわぁ!いきなり落ち着くな!>
<これは、「伝説の集い」がもう一度見られるんじゃないか?>
<しかも今回は中からな>
<これで来なかったら滅茶苦茶笑う>
<ところでこれって何時まで待つの?>
<そりゃ来るまででしょ>
<俺たちを誰だと思ってる>
<こっちは10ヶ月前からずっと”待機”してるんだよ>


 このワールドが一覧のトップに位置してから2時間が経とうとしていたその時、ついに、彼女が現れた――。

「あの……ここって多分、私のことを言っているんですよね」

 この声、話し方、紛うことなき彼女だ。アバターとユーザーIDこそ違っているけれど、鈴波アミだ。
 ちゃんと、覚えていてくれた。俺たちのことを、見つけてくれた。
 テキストチャットは、動かない。みんなキーボードから手を離し、固唾を飲んで見守っている。

「なんだか、懐かしいような場所ですね。この音楽も、聞いたことがある。あなた達のその姿も、何処かで、見たことがある……気がします」
 あれだけ饒舌だった彼女が、しどろもどろになっている。どう声を掛けていいものか、俺たちにはわからなかった。
「すみません、『鈴波アミ』の動画、最初の1本だけ見てみたんですけど、なんだかよくわからなくって、少し怖いような気もして、どうしたらいいかずっと考えていたんですけど、私は、もう何も――」

 最初に声を掛けたのは、モエキウロコだった。
 鈴波アミが見慣れているはずの姿で、優しく話しかける。
「こんばんは。私はモエキウロコ――あなたの友達で、担当モデラーでもあります」
「モデラーさん?」
「そう。あなたの身体を作ったんです。これを、着てみてください」
 モエキウロコは、「鈴波アミ」の3Dモデルを本来の持ち主へと送信した。それを身に纏った彼女を、ワールドの中央に設置された鏡の前へと連れていく。

 鏡に映る自分の姿を見ながら、彼女は何かを確かめるように頭や腕をゆっくりと動かし、消え入るような声で呟いた。
「これが私、ですか……」
 彼女は、酷く混乱しているようだった。
 モエキウロコは、ワールドの至るところに散りばめられているオブジェクトを紹介しながら、手元で小さなディスプレイを開き、過去の配信アーカイブを見せてまわる。
 あれはデビュー半年の記念配信で使った小道具で、あれはあなたの好きだったゲームに登場するキャラクターで、あれは私たちのコラボ配信の時に描いたイラストで、あれは……。

 鈴波アミは、彼女の記憶は、戻ってこなかった。

 その女の子は、こちらからは見えない涙を流しながら、自分の頭を何度も強く打つ。
「ああ、わからない、わからないんです! どうして、こんなにしてもらっているのに、何も思い出せない! なんで、なんで私は……!」


 ――いまこの瞬間、おそらく俺はこの中で……いや、きっと世界で一番、「鈴波アミ」のことを長く見てきた人間だった。
 彼女は俺の唯一無二の推しで、その推しがいま、目の前で泣いている。それをただ眺めているだけなんて、そんな事があっていいはずがない。
 これは俺が始めたことで、まだ、俺にしかできないこと、俺がやらなくちゃいけないことが、ある気がした。

 ボイスチャット機能をオンにする。

 根拠のない自信と、ひとつまみの硬い予感。
 考えるより先に、口から勝手に言葉が漏れた。


「近くに飲み物はありますか?」

 ――あの日、君が教えてくれたルーティン。

「次に、肩と腰のストレッチをします」

 ――俺たちには君がいなきゃダメなんだ。

「それから、唇をぶるぶる震わせてウォームアップです」

 ――他の誰かじゃ代わりになんてならない。

「目をつぶって、鼻から深く息を吸って」

 ――これからもずっと、君のことを見ていたい。

「一度止めてから、ふーっと吐きます」

 ――それだけでいいんだ。

「目を開けて。鏡に写っている自分を見つめてください」

 ――君が好きだよ。

「最後に、こう唱えます。私の名前は――」


 ――


 21時45分、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。今日は、もう1本別のヤツも出しておこう。それから、俺にしては珍しく、ちゃんとしたつまみも用意しておいた。ちょっと豪華な刺身のパックだ。
 今日は何の記念日でもないけれど、俺たちにとっては、これ以上ないほどの特別な日になる。それを、全身全霊で祝福したい。

 デスクに着いて、ウェブブラウザを起ち上げ、いつものページを開く。俺のアカウントは以前使っていたものとは違うけれど、そんなことは心底どうだっていい。俺は、ただの「みんな」の内のひとりだ。

<待機>
<待機>
<あと30秒>
<こんなに人集まってるの初めて見た>
<待機>
<オタクが記憶喪失治したってマジ?>
<フェイクだろ>
<マジなんだよなぁ>
<目の前で見てたぞ>
<待機>
<いまだに信じられん>
<よっしゃ間に合ったああああ>
<生きててよかった>
<これもう神話だろ>
<泣きそう>
<もうとっくに泣いてる>
<俺は吐きそう>
<くるぞ!!!!!>
<はじまる>

 22時00分、10ヶ月もの間表示され続けていた「鈴波アミを待っています」のテキストが消えた。
 画面中央にローディングのアニメーションが現れる。数秒して画面が切り替わり、スマートフォンが通知で震える。いつものBGM。

 そして、俺たちにとって一番大切な時間が、また始まった。


「おまたせ!」
<全然待ってないよ>



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