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競歩王|03|新年の願い事

1|初詣

 お賽銭を投げてから、何を願おうか悩んでしまった。両手を合わせ、とりあえず「もっと楽しく小説が書きたいです」と願った。

「明治神宮って、おみくじに吉とか凶とかないのがいいよね」

 引いたばかりのおみくじを見下ろしながら、亜希子が笑う。マフラーに隠れた口元がほころぶのが忍からもわかった。

 元日の明治神宮は参拝客で大混雑していた。昼頃は特に混むから朝七時に原宿駅に集合したのだが、それでも人が多い。でも、高校で初めて同じクラスになったときから、これが亜希子との恒例行事なのだ。

「《かりそめのことは思はでくらすこそ世にながらへむ薬なるらめ》だってさ。目先のものに囚われないで日々精一杯に頑張りなさい、で合ってる?」

「合ってるよ」
「よーし、じゃあ、気長にがんばろ」

 おみくじを財布にしまった亜希子を尻目に、自分のおみくじを確認した。明治天皇の詠んだ歌だった。

《ならび行く人にはよしやおくるともただしき道をふみなたがへそ》

 意味はすぐにわかったけれど、あえて裏面の解説文にも目を通した。

『多くの人々と並んで行く世の中で、たとえ、他の人々にはおくれることがあっても、あまり急いで、正しい道をふみあやまらないでほしいものです。』

 まるで、先ほどの願いを見透かされているみたいだった。

 参道の両端には屋台が連なっていて、あちこちから温かくいい匂いがした。どの屋台も人でいっぱいだ。「甘酒くらい飲むか」と行って歩いているうちに、気がついたら原宿駅の前まで来てしまった。よくよく考えたら、これも毎年のことだ。

「忍、いつもみたいに外苑前まで行く?」
「結局いつもそうなるな」
「新年の儀式みたいなもんだもんね」

 人でごった返す竹下通りを横目に、神宮球場方面に向かって歩いた。本来ならバスや電車で移動する距離だ。でも、初めて亜希子と明治神宮に初詣をしたとき、「どこかでお茶でも飲もう」と店を探しているうちに、明治神宮外苑まで行ってしまった。寒さに耐えかねて、元日から営業していたカフェに入った。

 それ以来、元日の東京を二人で三十分かけて歩き、外苑前のカフェでお茶をして帰る、というのが「いつもの元日」になった。去年の秋から亜希子は授業が忙しくなり、大学で顔を合わせる頻度が減ったが、これは変わらない。

 年末をどう過ごしたか話しながら歩いていると、通りの先に球場のネットが見えてきた。道の左右が白い壁で覆われ、その向こうから土埃のような乾燥した匂いが漂ってくる。

「この向こうって、新しい国立競技場だよね。まだ全然見えないけど」

 亜希子が白壁を指さす。デザインコンペで揉めて工期が遅れているといっても、流石に元日は工事も行われていない。背の高いクレーンが、寒空に突き立てられた刃みたいに寂しくそびえている。

「まだまだ先だなって思ったのに、案外あっという間にあと三年になっちゃったよね」

 そこまで言って、亜希子が「あ」と声を漏らす。続く言葉は、なんとなく予想できた。

「忍、オリンピックに向けて小説書くんだよね? 競歩の取材、進んでるの?」

 亜希子が苦笑いを浮かべたのは多分、忍が渋い顔をしたからだろう。

「まあまあ……じゃないな。あんまり」
「でも、たまに陸上部の練習、見に行ってるんでしょ?」
「行ってるけど、競歩の何が面白いのかよくわかんない」

 八千代篤彦とも、たいして言葉を交わしていない。向こうが明らかにこちらを遠ざけているから、ずかずかと踏み入る気にもなれなかった。

 そんなことを――競歩のことを考えていたから、いけなかったのだろうか。

 明治神宮球場の前を抜けて青山通りを歩いているときだった。背後から軽快な足音が近づいてきて、見知ったボブカットの女の子が忍の前に回り込んできたのは。


2|元旦競歩

「あ、やっぱり榛名さんだった」

 ダウンコートにスニーカーという動きやすそうな格好で、福本愛理が忍の顔を指さす。あんぐりと口を開けて固まった忍に代わり、亜希子が声を上げた。

「誰っ?」

 初めて陸上部を取材して以降、福本とはグラウンド以外でもときどき顔を合わせるが(というか、福本の方から話しかけてくる)、医学部の亜希子とは初対面だ。

「慶安大学新聞部で記者をしてます、福本愛理です。ジャーナリズム学科の一年です。初めまして、明けましておめでとうございます」

 礼儀正しく、でもどこか馴れ馴れしい口調で亜希子に一礼した福本は、忍にも「明けましておめでとうございます」と笑いかけた。

「榛名さんも観に来たんですね。私も、せっかくだから何かネタが摑めるかもと思って、実家に帰省するのを少し遅らせて観戦することにしたんです」

 さ、行きましょう。なんて顔で歩き出した福本を、「ちょっと待って!」と呼び止めた。

「観戦って、何のこと?」
「え、何って……元旦競歩に決まってるじゃないですか」

 元旦競歩。喉の奥で反芻して、ずるずると年末のことが思い出された。

 年内最後の取材の日。福本から「元日に競歩の大会があって、八千代先輩も出るらしいですよ」と聞かされた。「行けたら行くよ」と、ほとんどNOな返事をした。

 そういえば、会場は明治神宮外苑だと聞いたような……気がする。

「え、元旦競歩を観に来たわけじゃないんですか? じゃあ何してるんですか?」

 福本の目が亜希子に移った。チェスターコートのポケットに両手を突っ込んで、「初詣だけど……」と亜希子が困り顔で笑う。福本の視線から逃れるように、忍に視線を寄こす。

「大会やってるなら、観戦しに行く? せっかくだし」

 亜希子の言葉尻に被せるようにして、福本は「そうですよ」と大きく頷いた。

「榛名さん、まだ大会を観たことないじゃないですか。小説の参考になると思います」

 だから、まだ書くとは決まってないから。何度も吐いたセリフを口にしそうになって、やめた。「じゃあいつ決めるんですか?」と聞かれたら、どう答えればいいかわからない。

 それに、いつまで逃げ回るつもりだという声が、自分の中から聞こえてしまった。

「早く行きましょう。大学・一般男子の20 キロ競歩、もう始まっちゃいます」

 いつも背負っているリュックサックから、お馴染みのレモンイエローの腕章を福本は取り出した。「さあ、急いで急いで」と早足で歩いて行く彼女の背中に引き摺られるようにして、忍と亜希子は神宮外苑の銀杏並木を進んでいった。

 銀杏並木を抜けたら、球場やテニスコートのある巨大な広場を囲う道路が、一車線だけ封鎖されていた。パイロンが点々と置かれ、沿道にはちらほらと観客の姿もあった。

「コースは一周1・350キロ。一九六四年の東京オリンピックで、男子20キロ競歩のコースとして使われた場所です。元旦競歩自体は一九五三年に始まって、日本で最も歴史ある競歩大会なんです」

 手帳片手に愛理が説明する。記者らしく、今日の大会について入念に調べてきたのだろう。亜希子が「へえ」と、興味がないのを必死に隠して相槌を打つ。ついでに「相槌を打つのは忍の仕事でしょ」という顔でこちらを見る。

「八千代先輩の出場する男子20キロのスタート、もうすぐですよ」

 周回コースを時計回りに進んでいくと、少しずつ沿道の人の数が増えていった。葉の落ちた寒々しい木々が並ぶ道の先に、人だかりが見えてくる。観客ではない。薄手のユニフォームをまとい、腕や足を剝き出しにした選手達が百人以上、車道に並んでいた。自分の太腿を叩いたり、その場で軽く足踏みやジャンプをしたり、腕時計を確認したりしている。

 近づくほどに、彼等の細い手足から放たれる熱量が感じられる。体から湯気が上がっているんじゃないかと錯覚する。聞こえないはずの息遣いが、何十人分も聞こえてくる。

 自分が吐き出した真っ白な息が空に舞い上がって、周囲の色が濃くなった気がした。

「このへんで観ましょうか」と、福本が人の途切れた場所で足を止める。同時に、オレンジ色のジャンパーを着た男性がスターターピストルを鳴らした。

 乾いた音に身を竦めたのは一瞬で、何かを削り出すような荒々しい音が、忍達に近づいてきた。腕を前後に、腰を左右に動かしながら、選手達が歩いてくる。

「なんか……腰、痛めそう」

 ぽつりと亜希子が言った。確かに、ルールに縛られたあの独特のフォームは、素人目には腰を酷使しているように見える。すかさず福本が解説し始めた。

「競歩は腰の動きが大事らしいです。ああやって腰を動かすことで、軸足を入れ替えながら歩いてるんです。体の軸は案外ぶれてないんですよ」

 選手達が前を通過する。スタート直後だから、まだ選手達は集団で走って――歩いている。先頭からやや離れたところに八千代の姿があった。慶安大の瑠璃色のユニフォームを来て、サングラスをかけて、腕にはアームカバーを装着している。

「あ、八千代先輩、ファイトー!」

 福本が目の前を通過した八千代に手を振る。サングラスのせいで表情は見えなかったけれど、かけていなくても忍には彼の胸の内なんてわからない。

 八千代はこちらを気にする素振りすら見せず、黙々と歩いて行った。歩いているといっても、忍のジョギングよりずっと速い。亜希子もそれに驚いたようで、前髪を手で押さえながら溜め息を漏らした。

「速っ……」

 大学・一般男子の部だけあって、参加者の年齢も幅広い。大学名や企業名が入ったユニフォームを着ている選手もいれば、趣味で参加したのであろう初老の男性もいた。その分、歩く速度にも差があり、徐々に集団は縦に長くなっていく。八千代は位置についていた。先頭から十番目くらいだ。

「私、走ってもあの人達より遅い気がする」
「俺もそう思う」

 去年の十一月から、二週間に一度くらいのペースでグラウンドで練習を見学していたから、彼等の歩くスピードが尋常じゃないことも、果たしてあれは《歩く》と表現していいものかということも、忍はよく知っている。

 足がしなる。鞭のように、しなやかに地面を蹴る。人間ではない、何か違う生き物のような雰囲気をまとった集団は、あっという間に見えなくなった。

「なあ、さっき、一周1・350キロって言ったよな? 20キロ歩くってことは……」

 コース上を吹き抜けていった冷たい風に首を窄めながら、福本に聞いた。

「はい、このコースをこれから大体十五周します。競歩は1キロを四分のペースで歩くので、ここにいれば五分に一回くらい八千代先輩を応援できますよ」

「ということは、1キロ四分のペースで20キロ歩くから、レースが終わるまで一時間半近くかかるってこと?」

 時計を確認する。九時二十分を過ぎたところだ。全く同じ体勢で時間を確認していた亜希子が、「どうしようか」という顔で忍を見る。気軽に「観戦しに行く?」と言ってしまったことを、申し訳なく思っている顔だ。

 このあと用事があるから。なんて言って去ることは簡単だ。けれど、脳裏に先ほどの八千代の姿が浮かんでしまう。彼は、二周、三周とこのコースを歩く中で、どこかで忍が姿を消したら、どう思うだろう。

 ああ、帰ったんだ。寒いし、正月だし、家でぬくぬくしたいんだろう。所詮その程度の気持ちなんだろう。きっと、そう思われる。

「亜希子、俺、もうちょっと観ていくから。先に帰る?」
「いいよ。忍が観ていくなら、付き合う」

 マフラーを巻き直した亜希子がコートのポケットからスマホを取り出す。

「次に選手が来たら写真でも撮ろうかな」なんて言いながら。
「今更ですが、デートの邪魔をしたみたいで申し訳ありません」

 神妙な面持ちで、福本が謝ってくる。本当に今更だ。

「デートじゃない、初詣」
「いや、デートじゃないですか」

 亜希子はカメラアプリを確認しながら、聞こえない振りをしている。福本はさらに声を潜め、忍の耳元で「だって」と言ってきた。

「大学でよく一緒にいるじゃないですか。ラウンジとか食堂でしょっちゅう見かけますもん。付き合ってないんですか?」
「付き合ってるわけじゃない。高校からの同級生ってだけ」
「噓だあ……」

 本当に、自分達は恋人同士なんかじゃない。ただ気が合ったから、なんとなく落ち着くし楽しいから、一緒にいるにすぎない。高校一年のときに同じクラスになって、たまたま席が近くなって、亜希子が忍の読んでいる本に興味を持って、仲良くなった。

「噓だと思うなら噓でいい」

 とりあえず、男子の20キロ競歩が終わるまでは沿道にいることにした。福本の言う通り、およそ五分に一度のペースで目の前を選手達が通過していった。八千代が通りかかると福本が声援を送り、申し訳程度に亜希子も「頑張ってー!」と声を掛けた。忍はどうしてもそれができなかった。

 それ以外の時間は、福本が亜希子に競歩のルールを説明したり、やんわり忍の高校時代のことを質問したりしていた。如何せん、見えないところで何が起こっているかわからないから、いまいちレースに熱中できない。

 先頭を走る実業団の選手は、周回のたびに後続を引き離した。彼にやや遅れて第二集団が形成され、八千代がいるのは三位集団といったところか。

「足を地面から離しちゃいけないってことは、足の裏にセンサーでもつけてるの?」

 おもむろに亜希子に聞かれて、忍は答えに困った。

「審判員が目視で確認する、って聞いたけど」
「目視のみ、ってこと?」

 答えられず福本を見ると、彼女は大きく頷いてコースの先を指さした。

「あそこに黒いジャンパーを着た男の人が立っていますよね? あれが審判員です。自分の前を通る選手の歩形をチェックするんです」

 コース上に、いつか福本から聞いた注意を知らせる札を持った男性が立っていた。ちょうど前を通過した選手に向かって、ひらがなの「く」に似たマークの札を差し出した。

「今、あの選手はベント・ニー――つまり、膝が曲がっている、という注意を受けました。歩形を修正しないと、このあと警告を出されちゃいますね。もう一枚の波線みたいなマークがロス・オブ・コンタクト。両足が地面を離れてしまったときに出される札です」

「センサーでもビデオでもなくて、目視なんだ。誤審とかないの?」

 忍が聞きたかったことを、亜希子が先に聞いてくれた。

「審判員によっては判定に個人差が出る場合もあるって聞きました。厳しい人だったり、逆に寛容な人だったり、同じ歩形でも警告を出す人と出さない人がいるって」

「長い距離を歩いて疲れてるのに、審判の目も気にしないといけないんだ。大変だね」

 感心した様子で亜希子は言うけれど、今ひとつ声に熱量がない。

「そういう競技なんです。競歩って、審判員の目が勝敗を分けることも多いんで。体力はもちろん、注意や警告を出されたときにきちんと歩形を立て直したり、警告を出されても平常心を保つメンタルが重要なんです」

「八千代は、メンタル強そうだけど」

 一人で黙々と練習する普段の八千代の姿を思い出して、忍はぽつりと呟いた。

「メンタルが強いってわけじゃないと思うんですよね。内に籠もるのが得意ってだけで」

 一際強く冷たい風が吹いて、頭上の枯れ木の枝が軋んだ音を立てる。福本の声はそれに被さって、途切れ途切れに聞こえた。なのに、「内に籠もるのが得意」という言葉だけが妙にはっきりと聞こえてしまう。

 遠くから足音が聞こえてきた。一位の選手が忍達の前を通過する。八千代は三位集団の最後尾につけていた。前の周回より、微かに口元が強ばっている。こんなに寒いのに、体は汗で濡れていた。

「あと三周ですし、ゴールのあたりに行きましょうか」

 福本に言われるがまま、コースを時計回りに進んでいく。スタート地点から200mほど先にゴールがあった。

 建設中の、新国立競技場の目の前に。

 陽の向きが変わったのか、工事現場を囲む白壁が、堪らなく眩しかった。


3|小説のためですか?

 一位は、ずっと先頭を歩いていた実業団の選手だった。八千代はそこからだいぶ遅れてカーブの先から姿を現した。

「八千代せんぱーい! ラスト、ラストー!」

 沿道から身を乗り出すようにして、福本が声を張り上げる。

 八千代のフォームは崩れていた。スタート直後と歩き方が違う。ゴールラインを越えると同時に、アスファルトに崩れ落ちた。電池が、そこでぷつりと切れてしまったみたいに。

 沿道の観客から小さな悲鳴が上がり、八千代がこめかみを地面に打ちつける。サングラスが外れて、忍のいるあたりまで転がってきた。

 歩道から手を伸ばして、サングラスを拾い上げる。汗に濡れたテンプルが、熱かった。

 八千代は二人の運営員に肩を抱かれて運ばれていった。他の選手にはマネージャーらしき人物が帯同しているのに、八千代は一人きりだ。

「えっ、1時間34分30秒?」

 腕時計を確認した福本が、突然叫んだ。亜希子がつけているような華奢で洒落たものではなく、水にも衝撃にも強そうなストップウォッチ付きのゴツゴツとしたデザインだ。

「え、噓、1時間34分30秒なの?」

 繰り返す福本に、亜希子が「それって速いの? 遅いの?」と聞く。

「自己ベストなんですけど……1時間34分ちょうどを先輩は目標にしてたので」
「ああ、30秒オーバーしちゃったんだ」
「1時間34分をクリアできれば、二月の日本選手権に参加できるんです。八千代先輩、年末もいろんな記録会でチャレンジしてたんですけど、あと一歩のところでどうしてもクリアできなくて。今日、調子よさそうだったから行けると思ったのになあ」

 今にも地団駄を踏み出しそうな顔で、福本は何度も腕時計を見る。

「八千代先輩、悔しいだろうなあ……」
「今日、出さないといけなかったのか?」

 サングラスを見下ろしたまま、忍は聞いた。

「今月の二十三日が日本選手権の申し込み締め切りで、その前日までに参加標準記録を満たさないといけないんです。参加標準記録というのは公認記録ではないと駄目で、日本陸連に認められた大会や記録会でないと公認記録扱いされません」

「じゃあ、いくら普段の練習でいいタイムが出ても意味がないってことか」

 今月の二十二日までとなると、残っている大会や記録会もそう多くないだろう。

「とりあえず、八千代先輩のところに行きましょうか。榛名さんも、サングラス返すついでに一言かけたらどうですか? 一応、何回か練習を見てるんですから」

 福本がコースの内側にある広場に向かおうとする。亜希子を見ると、「私は面識ないし、待ってるよ」と手を振られた。

 握り締めていたサングラスをもう一度見つめて、忍は福本について行った。

 コースの内側にある聖徳記念絵画館前の広場と駐車場で、参加者が各々クールダウンをしていた。次のレースに出場する選手達はウォーミングアップに勤しんでいる。

 八千代はやはり一人で、地面に座り込んでいた。背中が何度も大きく膨らんで、凹む。苦しそうな荒い息遣いが徐々に大きくなる。

「先輩、惜しかったです」

 福本の声に、八千代がゆっくり顔を上げる。こめかみがうっすらと赤くなっていた。

「……駄目なものは駄目だ」

 苦々しげに八千代は答え、タオルを頭から被る。うなじやこめかみのあたりを拭きながら、小さく溜め息をついた。

 掌の硬い感触を思い出して、忍はサングラスを差し出した。

「頭、結構痛そうだけど、大丈夫?」

 サングラスをじっと見る八千代に、どう言葉をかければいいかわからない。「惜しかった」とか「ドンマイ」なんて言えるほど、彼をちゃんと見ていたわけでもない。

「救護室とか、行った方がいいんじゃないの」
「大丈夫です」

 忍が苦し紛れに言ったのを見透かすみたいに、八千代はサングラスを受け取った。

「どう思いました?」

 唐突に、そう聞かれる。

「へ?」
「競歩のレースを見て、どう思いました?」

 八千代から質問されるのも、まともに会話をするのも、初めて練習を見学した日以来だ。

「どう、って……」
「随分つまらなそうな顔をして見てたんで、どういうつもりで来てるのかなと思って」

 八千代の視線が、忍の後方へ向く。振り返ると、遠くに亜希子の姿があった。人通りのないところにぽつんとたたずんで、スマホを弄っている。ああ、きっと、正月に彼女連れで冷やかしに来たと、そう思われたんだ。

「練習しか見たことなかったら。大会ってどういう感じなのか見てみたくて」

 噓つけ。福本と会わなかったら、絶対に来なかったくせに。存在すら忘れていたくせに。

「小説のためですか?」
「まあ、そうだね」

 ふうん、と、八千代は鼻を鳴らす。堪らなく、胡散臭そうな顔で。

「榛名先輩」

 初めて八千代に名前を呼ばれた。「はい」と、何故か声が強ばってしまう。

「先輩、競歩の小説なんて、書く気ないんじゃないですか?」

 そんな図星を、見事についてくる。

 もしかしたら彼には、こちらの熱量のなさや投げやりな気持ちが、忍が思っているよりずっと鮮明に伝わっていたのかもしれない。

「練習を見学したり大会を観戦しにくるのは構いませんけど、書く気がないなら他のことに時間を使った方が有益じゃないですか?」

 その通りなのだけれど。全くその通りなのだけれど。

「じゃあ」

 何が有益なのか直感で判断できるなら世話ないだろ。なんて、言い返したくなってしまう。手探りなんだよ。何を書けばいいのかわからないから、手探りで探ってるんだよ、と。

「じゃあ、一つ聞かせてよ。君は、どうして競歩をやってるの」

 俺には、この競技の面白さがわからない。元日の朝、日本中が新年を祝ってのんびり過ごす中、こんな寒い場所を延々と《歩く》ことの意味が、理解できない。

 そんな忍の本音は、八千代にしっかり伝わったみたいだった。

「先輩には、絶対にわからないですよ」

 ポイ捨てするみたいに言って、八千代は去っていく。20キロなんて長い距離を歩いた両足を、ボロボロになった細い体を引き摺るようにして、ウォーミングアップやクールダウンをする選手達、慌ただしく走り回る運営員の向こうに姿を消した。

「箱根」

 ぽつりと、隣にいた福本が言う。

「八千代先輩が競歩をやるのは、もう箱根駅伝に出られないから。元旦競歩に出場したのは、明日、明後日が箱根駅伝だから。私はそう思ってます」

 八千代が消えた方をぼんやりと見つめながら、彼女は肩を落とした。



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小説家。最新刊『風に恋う』発売中。2015年松本清張賞・小学館文庫小説賞受賞。既刊『屋上のウインドノーツ』『ヒトリコ』『タスキメシ』『さよならクリームソーダ』『拝啓、本が売れません』など。詳しくは>>>http://nukaga-mio.work/
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