風に恋う帯無し

風に恋う|序章|02

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「茶園、バスで帰るの?」

 うちの車、乗って帰る? と杉野がホールの隅にいる自分の母親を指さして聞いてきた。一、二年生はこのあと楽器を学校まで運び後片付けをするけれど、三年生は現地解散だ。

「いや、いいよ。玲於奈(れおな)が来てるから、一緒に帰る」
「ああ、鳴神先輩、来てるんだ」

 自動ドアの向こう側、外灯の光がぼんやりと並ぶ植え込みの近くに、探していた女子の姿を見つけ、基は杉野に「じゃあね」と手を振った。

「相変わらず仲良しだねえ、茶園と鳴神(なるかみ)先輩」
「幼馴染みだからね」

 ホールを出た途端に冷たい夜風が吹きつけてきて、基は首を縮こまらせた。皮膚がひび割れて血が出そうだ。マフラーを巻いてきたらよかったなとサックスのケースを背負い直し、ベンチに座ってスマホをいじる玲於奈の元に駆けていった。

「寒くないの?」

 玲於奈は温かそうなファーのついたブーツを履いていたけれど、肩胛骨のあたりまである黒髪を二つ結びにしているから、見ているこっちの首筋がすーすーする。

「中で待ってたらよかったのに」
「OGがずっと居座ってたら、みんなに気ぃ遣わせちゃうと思って」

 玲於奈は基より二歳年上の、高校二年生。もうすぐ三年生に上がる。二年前にこのホールで行われた定期演奏会で送り出されたのは、玲於奈達の代だった。

「帰ろっか」

 スマホをリュックのポケットにしまった玲於奈が立ち上がり、バス停に向かって歩き始める。半歩遅れて基もついていった。

「ソロ、よかったじゃん」
「そう? ありがとう」
「高校でも続けたらいいのに。せっかく千せん学がくに入るんだからさ」
「その話、一体何度目だよ」

 基が四月に入学する千せん間げん学がく院いん高校――通称・千学の吹奏楽部で、玲於奈は部長をしている。
 基が千学を第一志望にしていること、中学で吹奏楽をやめることを知って、当然の如く「やめるなんてもったいない」「吹奏楽部入りなよ」と誘ってきた。
 でも、九月に吹奏楽部を引退して、受験生になって、千学の一般入試を受けて……そうしている間も、「もう一度吹奏楽部に入ろう」という気持ちは湧いてこなかった。

「大学受験もあるし、さすがにあと三年も全日本目指して吹奏楽っていうのは、僕には無理かな。もう、三百六十五日、二十四時間吹奏楽漬けになるのは、ちょっとしんどいよ」

 誤魔化すように頰を搔きながら基は言う。でも、玲於奈は納得してくれなかった。

「だって基、ちっさい頃から千学の吹奏楽部が好きだったから」
「好きだったけど」

 それは、昔の話だ。千学の吹奏楽部が全日本に出場したのは、もう何年も前で――今じゃ、埼玉県大会も通過できない。あの頃と今では千学は別物だ。比べるのも失礼なくらい。そこで部長をしている玲於奈にはとても言えないけれど、それが基の本音だった。

「私だって大学では吹奏楽続けないし、誰がいつやめたってその人の自由だけど、基が吹奏楽をやめるのは間違ってると思う。あんたは、音楽をやらないといけない人なんだから」

「なに、それ」

「基には自覚がないんだろうけど、サックス吹いてるあんたには何かが取り憑いてる」

 玲於奈は言った。基を責めるみたいに、咎がめるみたいに。

「やだなあ……怖いこと言わないでよ。何に憑かれてるっていうのさ」
「強いて言うなら、吹奏楽の神様」
「大袈裟だなあ」

 カラカラに乾いた笑いをこぼして、浅く息を吸った。もしそんな神様が側にいるなら、どうして僕を全日本コンクールに連れて行ってくれなかったんだ。

「いいんだ。今日でおしまいにする」

 寒さのせいだろうか、胸が針で刺されたみたいに痛んだ。

「ごめんね、玲於奈」

 玲於奈がさっきから一度もこちらを見ないのに耐えかねて、基は謝罪した。

「この裏切り者」
「うん。だからごめんってば」

 二年前、玲於奈が大迫一中吹奏楽部の一員として最後のステージに立った夜。あの日も自分達は枯れた欅けやきの並ぶこの道を歩いた。玲於奈は基に二つ、約束を押しつけた。
 全日本コンクールに出場して。あと、千学でまた一緒に吹奏楽やろうね。
 結局、基はそのどちらも果たすことができなかった。

「塾、サボっちゃって大丈夫だったの? 玲於奈のお父さん達、怒らない?」

 玲於奈はぶすっとした様子で黙々と歩く。靴の踵かかとが煉れん瓦が に当たってカツンカツンと鳴る。困ったなあと基は笑った。玲於奈は一度不機嫌になると長い。きっとバス停に着いても、バスに乗っても、降りても、隣同士に立つ互いの家に着いても、きっと機嫌は悪いままだ。

 基が足を止めると、玲於奈はそれに気づくことなくずんずんと進んで行ってしまう。少しずつ、自分達の距離が開いていく。

 すっかり冷え切ってしまった両の掌に、基は息を吹きかけた。




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