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競歩王|04|直木賞の日

1|アリア

 綺麗なカバーの本になった。寒々しい青空の写真と、本のタイトルと、榛名忍の名前。巻かれた帯はざらついた白色。「新進気鋭の作者が描く、青春の残響」なんて格好つけたコピーが躍っている。その本にサインを書きながら、忍は苦笑いを堪えた。

「青春の残響」という言葉は、編集者が考えた。小説の内容をよく表している。だからこそ、誰もが共感できる《青春の象徴》みたいに扱われる自分の小説が、傲慢で無恥なものに思えてしまう。《新進気鋭》という言葉も、高校生作家でなくなった自分を――何の肩書きもない榛名忍という作家を、必死にいい感じに言い表そうとしているみたいだ。

『アリア』――それが、忍の新刊のタイトルだ。デビューした玉松書房ではなく、ミナモ館という比較的小さな出版社から刊行される。

 会議室のドアが開いて、この本の担当編集である佐原さんが入ってくる。

「部屋、寒くないですか?」と言いながら、寒そうにズボンの腿のあたりを擦っていた。

「はい、お代わりどうぞ。学校で忙しいのに、ご足労いただいちゃってすみません」

 熱々のコーヒーが注がれたマグカップが、忍から少し離れたところに置かれる。忍がサインを入れた本を、佐原さんは段ボールに詰め始めた。サイン本はこのあと、全国の書店に向けて発送される。

「今、春休みですし。暇なもんですよ」
「え、大学生って、もう春休み?」
「先週、先々週と期末試験をやって、あとは四月まで休みです」

 本当に驚いた、という顔で佐原さんは「そっかあ」と肩を竦める。まだ三十代後半なのだから、学生時代はそんな昔のことじゃないだろうに。

「じゃあ、今は何の原稿を進めてるんですか?」
「具体的に書いてるわけじゃないんです。玉松書房の担当と話し合ってるところです」

 他にも、声をかけてくれる出版社はある。あるけれど、「もうすぐ就活が始まるんで」とか「卒業論文が……」などと言って、先延ばしにしてもらっている。数年後に彼等が再び仕事をくれるかは、わからない。

「次回作を構想中、ってことですね」
「まあ」

《構想中》とは便利な言葉だ。何もしていなくても、何かしているような気がしてくる。

「じゃあ、次の本は来年から再来年ですかね、楽しみですねえ。榛名さんはまだ大学生ですし、まずは勉学を優先ですから」

 本を作るのは時間がかかる。だから来年、再来年の話を当たり前にするし、気がついたら一年があっという間に過ぎ去っている。モラトリアム真っ直中の大学生としての自分と、作家としての自分の体内時計の差が、怖くなる。

 大学生というのは、便利だ。「学生の本分は勉強」と、大人は何でも大目に見てくれる。

「『アリア』、榛名さんにとっては五冊目の単行本ですね」

 しみじみとした声色で、佐原さんが言う。「早いですねえ」と。

「『ノンセクト・ラジカル』『エーデルワイスが歌えない』『アンダードッグ』『遥かなる通学路』。五冊目にうちみたいな小さな出版社を選んでいただけて嬉しいです」

「佐原さんにはデビュー直後から声を掛けてもらってたのに、むしろ時間がかかっちゃって申し訳ないですよ」

 ミナモ館は、子供の頃好きだった児童書を出している出版社だった。デビュー一年目に佐原さんが声を掛けてくれて、嬉しくて二つ返事で仕事を引き受けた。

「でも、お蔭さまでいい本になりましたよ、『アリア』。榛名さんのいいところが存分に出てます。中身はもちろん、装幀もいい。僕、大好きです、この本」

 佐原さんの言葉に、噓はないだろう。デザイナーの力もあって綺麗な本になった。中身だって――去年の秋に『アリア』を書き上げたとき、いい物語になったと思った。これで自分は浮上できる。スランプを脱し、かつて多くの人に期待された「天才高校生作家」として、たくさん小説を書ける。あの頃のように楽しく小説を書くことができる、と。

 でも、駄目だった。自分は本を読むのは怖いままで、小説を書くのはもっと怖くなった。


2|余計なお世話!

 サイン本を三十冊ほど作って、佐原さんと遅い昼食を済ませ、せっかくだから大学に寄ることにした。ミナモ館からは電車で二駅だし、図書館で調べ物をしたかった。

 玉松書房の百地さんと進めている競歩小説は、未だプロットにもなっていない。

 図書館で陸上競技について書かれた本を何冊か読んで、なんとなく写真集や美術書や民俗学の本をぱらぱらと捲って、六時過ぎに図書館を出た。

「榛名さーん! 奇遇ですね!」

 そんなことを言いながら福本が忍の隣に並んだのは、正門の手前でのことだった。

「福本さん、君、俺をストーカーしてない?」

 元旦競歩のときといい、どうしてこう彼女とかち合うのだろう。

「失礼な。元旦競歩はただの偶然だし、春休みも新聞部は忙しいんです。部室棟は図書館の隣だから、私と榛名さんがここでたまたま会うのは別に不思議じゃないです」

 いつも通り歩きやすそうなスニーカーを履いた福本は、「あ、でも」とにやっと笑った。

「記者として、榛名さんが競歩を題材にどんな小説を書くのか興味はあります」
「仮にどんなものを書くか決まったとしても、君には絶対教えないからな」
「ええー、なんでですか! うちの新聞で特集組みますよ?」
「絶対、嫌だから」
「何をそんなにイライラしてるんですか?」
「……新刊が出た直後って、ぴりぴりするもんなんだよ」

 苦し紛れに言って、すぐに後悔した。

「え、新刊出たんですか? いつですか? タイトルは?」

 福本に、食いつかれてしまった。早く駅に着かないかな、と忍は歩く速度を上げた。

「ミナモ館から、先週に。『アリア』ってタイトル」

『アリア』というタイトルは、とても気に入っている。気に入っているのに、何故か口にするのが堪らなく嫌だった。恥ずかしいのではなく、嫌だった。

「そうなんですか。早く教えてくれたら発売日に買ったのに」

 福本がポケットからスマホを取り出し、検索し始める。「あ、あった」と呟いて、画面を忍に見せてくる。ミナモ館のホームページに『アリア』の書影が表示されていた。

「榛名さん、暇なら本屋さんに行きませんか?」

 駅に到着し、改札を通過した福本がこちらをくるりと振り返った。

「榛名さんの新刊、本屋で買いますから。ついでに何かオススメの本を教えてください」

 そう言われたら、断るわけにもいかない。山手線で新宿まで行き、紀伊國屋書店に向かった。エスカレーターで二階の文芸フロアに上がった福本が、機嫌良く一番大きな棚の前へと進んでいく。

『アリア』より先に忍の目に飛び込んできたのは、「芥川賞・直木賞 今夜発表!」という手作りのパネルだった。フロアの一等地に今回のノミネート作が並べられている。

 そうか、今日だ。二〇一六年下半期の芥川賞と直木賞の発表は、今日だ。すっかり忘れていた。ノミネート作すら碌にチェックしていなかった。

 受賞作がつい先ほど決定したようで、「受賞決定!」というPOPのついた本が書店員の手で大々的に展開されている最中だった。

「凄い、ちゃんと並んでるじゃないですか」

 近くの平台に『アリア』が置かれていた。昼間作ったサイン本がもう置いてある。ミナモ館の営業がすぐに届けてくれたのだろう。

「売上げに貢献しますね」

 なんて声を輝かせた福本が、『アリア』のサイン本を一冊手に取る。そして、芥川賞と直木賞のコーナーに気づいた。

「あ、直木賞と芥川賞、今日だったんですね」

 芳しい香りの花に蜂が吸い寄せられるみたいに、福本がそちらへ走っていく。

「榛名さん、ノミネート作品でオススメってありますか?」

 そう聞かれて、忍は仕方なくコーナーの前に立った。一年前は候補作すべてに目を通したけれど、今回は一冊も読んでいない。

「やっぱり受賞したやつを読めって感じですか? ちょっと分厚いけど」

 受賞作を手に取って、その分厚さに福本がおののく。ページを捲って、「わ、しかも二段組だ!」とさらに驚いていた。

「俺も実は読んでないんだ」

 正直に言って、忍も受賞作を手に取る。重い。ページ数の問題ではない。存在が重い。本の発する重力に引きずり込まれそうになる。

 それが、堪らなく怖い。

「榛名さんも、やっぱり直木賞がほしいんですか?」

 無邪気な質問だった。皮肉を言っているわけでも、悪気があるわけでもないと、わかる。

 ほしいに決まってるじゃん、俺もノミネートされないかなあ。そんな軽口を叩くには、何を得ればいいのだろう。どんな風になれば言えるのだろう。

「すみませーん……」

 突然、後ろから話しかけられた。

 茶髪の若い女性だった。「いきなりすみません」と化粧っ気のない顔で柔和に笑いかけてくる。彼女の背後には、カメラを抱えた男性がいた。

「日東テレビの『モーニングタイム』という番組の者なんですが、本日発表になった芥川賞と直木賞について、よろしければインタビューさせてもらえませんか?」

 そうだ。今日は、芥川賞と直木賞の発表の日なのだ。そしてここは紀伊國屋書店新宿本店なのだ。日本有数の大型書店なのだ。そりゃあ、マスコミだって来る。受賞作決定のニュースを伝えるために、客にだってインタビューする。

「え、いいですよ! 任せてください」

 あろうことか、福本がそんなことを言って忍の肩を叩いてくる。

「ていうかこの人、小説家なんです。あの元天才高校生作家、榛名忍さんです。きっと次の直木賞は榛名さんのこの新刊が――」

 福本が『アリア』を掲げようとして、忍は慌てて本を奪った。左手で彼女の口を塞ぐ。

「すみません」

 女性とカメラマンに頭を下げて、後退る。

「一応、同業者なので、遠慮させてください」

 それが、精一杯だった。福本を引き摺るようにしてその場を離れた。店内は本を買い求める人で混み合っている。どうせ彼等がインタビューする相手はすぐに捕まるだろう。

 ギブアップとでも言いたげに福本が忍の腕を叩いてきた。手を離すと、「死ぬかと思った!」と抗議してくる。

「せっかく新刊の宣伝をするチャンスだったのに」
「余計なお世話!」

 受賞作を片手に「読むのが楽しみです」なんて言いながら、さり気なく自分の本をPRする自分を想像して、背筋が寒くなる。

「ほら、さっさと買って帰るぞ」

 右手に直木賞受賞作を握り締めたままだった。あのコーナーに戻る気にもなれなくて、忍は福本と一緒にレジに並んだ。

「そういえば」

 会計を済ませて(芥川賞・直木賞のコーナーの前を通らないように)店を出たとき、福本が改まった顔で忍を振り返った。

『アリア』の入った袋が、かさりと音を立てる。新宿の夜の雑踏の中で、妙に耳に突き刺さる音だった。

「榛名さん、三月の全日本競歩能美大会は観に行くんですか?」

「……能美?」

「石川県能美市で開催される、20キロ競歩の大会です。八千代先輩、元旦競歩でこっちの大会の参加標準記録をクリアしたから、出場するらしいです。ちなみにこの大会は今年のロンドン世界陸上の選考会も兼ねてるので、結構盛り上がるはずです。世界大会でメダルを狙うような強い選手がたくさん出場します」

 そこを八千代が歩いて大丈夫なのか。福本の顔には、心配の色が見え隠れしていた。

「榛名さん、競歩の面白さがイマイチわからないんですよね? なら、大きな大会を観るのが手っ取り早いと思って。書くか書かないか、早く決断したいんじゃないですか?」

 忍は唇を嚙んだ。握り締めた紀伊國屋書店の袋が、とてつもなく重い。掌に食い込んで、そのまま指が引きちぎれてしまいそうだった。


3|息ができない

 新宿から中央線で十分ほどのところに、忍の暮らすアパートがある。駅から徒歩五分の、単身者向けにしては広めの1DK。本棚を五つも置くことができて、引っ越してきたばかりの頃はそれが壮観で、嬉しかった。

 実家は埼玉だけれど、大学ではあえて一人暮らしをした。同じ高校に通っていた亜希子が「実習も多いし、通学時間が長いのは嫌だ」と引っ越し先を探していたのもあって、忍も「大学四年間くらい、一人で暮らしてみるのもいいかもしれない」と思った。デビュー作の印税もあったし、両親も「人生経験だ」と言って送り出してくれた。

 その選択は、正解だったと思う。もし実家住まいだったら、両親は忍のスランプを心配しただろうから。

 風呂に入って、ベッドに横になって、買ってきたばかりの直木賞受賞作を読んだ。読み切ったのは明け方だった。

 一気に読んだ。途中で読むのを止めたら、もう読めない気がした。何度も涙が出た。感動じゃなくて恐怖だった。章と章の間に一呼吸置いた瞬間、寝室に並ぶ五つの本棚が、そこにぎっしりと詰まった本が、自分を押し潰そうとしているみたいに感じられた。

 胸に抱えた本に、息が苦しくなる。

 どうして俺は、本を読むことを心から楽しいと思える自分でなくなってしまったのだろう。本を読むことをこんなに怖いと思うようになってしまったのだろう。

 そこまでして、俺は小説を書いていたいのだろうか。こんなに面白い本がごまんとある世界で、どうやって生きていけばいい。

 何か。何かしないと。

 何かしていないと、恐怖に吞み込まれて息ができない。


*この続きは『競歩王』(額賀澪/光文社)にてお楽しみください。


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小説家。最新刊『風に恋う』発売中。2015年松本清張賞・小学館文庫小説賞受賞。既刊『屋上のウインドノーツ』『ヒトリコ』『タスキメシ』『さよならクリームソーダ』『拝啓、本が売れません』など。詳しくは>>>http://nukaga-mio.work/

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