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競歩王|02|孤独のウォーカー

1|新聞部

 グラウンドなんて大学一年の体育の授業で使って以来だ。単位を落としたわけでもないのに、大学三年の秋学期になって再びここに来ることになるとは。

 十月も下旬に入り、わずかに色づき始めた銀杏並木を抜け、忍は思わず足を止めた。というより、自然と足が重くなってしまった。

 キャンパス北側にある広大なグラウンドには陸上競技用のトラックがあり、クロスカントリーコースがその外周を囲っている。緑に囲まれ広々としたグラウンドに、ここが山手線の内側だということを忘れそうになる。

 百地さんと「競歩小説を書こう」と話したのは、まだ夏休み中だった。オリンピックの頃。日本が萩野公介や体操男子団体の金メダルに、陸上の男子4×100mリレーの銀メダルに沸いていた頃。

 九月になると、百地さんは企画を本稼働させ始めた。

『競歩小説、会議に通しますね。企画書は僕の方で上手いこと作っておきますから』
『編集会議でOKが出ました。取材へもガンガン行ってよし、だそうです』
『ネタ探しに取材に行きましょうか』

 そんなメールが三日ほどの間に立て続けに届いて、あれよあれよという間に忍は競歩小説を書くことになってしまった。

 気は進まないけれど、断ることもできない。だって、夏から今までたっぷり時間はあったはずなのに、競歩小説以外の企画を百地さんへ提示できなかった。

『取材に行きましょうか』という百地さんのメールに、自分の大学の陸上部をちょっと眺めてくると返事をしたのが、一週間前のことだ。

 芝生を切り裂くように敷かれた真っ青なトラックを、フェンス越しに見つめる。夏に太陽の光をたっぷり浴びた芝は秋になっても瑞々しく、トラックの人工的な青色と相まって眩しい。

 その上を、細身の選手が三人、走っている。

 足も腕も、腰回りも細い。紙のように薄いウエアを着て、眉間に皺を寄せて走る。細いけれど貧弱ではない。薄く鍛え上げられた鋼のような体だった。

 正式な取材ではないし、自分から「小説家なんだが練習を見させてくれ」なんて死んでも言いたくない。フェンス越しに練習を見ているくらい、何も言われないだろう。

 なのに。

「いない……」

 トラックを走る選手達は、当然ながらみんな走っている。歩いている選手の姿はない。

「ていうか、どれが競歩の選手だよ」

 昨夜、慶安大陸上部のホームページで競歩選手が所属しているのを確認した。でも、あの作りものめいた不可思議なフォームで歩いている選手は見当たらない。

 フェンスに鼻を押し当てるようにしてグラウンドを凝視していたら、近づいてくる足音に気づくのが遅れた。

「何してるんですか?」

 自分に向けられた問いだとわかって、恐る恐る後ろを見る。紺色のジャケットを着た女の子がいた。ブラウンのボブカットを揺らし、「随分熱心に見てるから」と首を傾げる。

「もしかして、入部希望とかですか? 一般の学生は、年度初めの入部テストに受からないと入れないですよ?」

「いや、違います。ちょっと、見学してただけです」

 陸上部のマネージャーかと一瞬思ったけれど、襟付きのジャケットに七分丈の細身のパンツ(なのに足下はスニーカーだ)という格好は、マネージャーには思えなかった。

「そうですか。それは失礼しました。見学にしてはもの凄く真剣な顔をしてたので」

 それじゃあ、失礼します。そう一礼して、彼女は踵を返す。しかし、忍から三歩ほど離れたところで突然立ち止まり、勢いよくこちらを振り返った。

 ――なんだか、とても嫌な予感がした。

「あ、思い出した!」

 目を見開いて、不躾にもこちらを指さしてくる。

「天才高校生作家、榛名忍!」

 ずかずかと忍の前に戻ってきて、彼女はもう一度「天才高校生作家!」と繰り返した。

「……もう、高校生じゃないですけど」

「私、高校生の頃、榛名さんをテレビで見たことがあります。『文壇に奇跡の天才高校生現る!』って。うちの新聞にも、二年くらい前にインタビューが載りましたよね」

 言いながら、彼女は背負っていたリュックサックの横ポケットから、レモンイエローの腕章を取り出して広げた。

「申し遅れました。私、慶安大学新聞部で学生記者をやってます、福本愛理と申します」

 レモンイエローの地に刺繡された「慶安大学新聞部」の名前は、よく知っている。月に一度、大学のニュースを伝える慶安新聞を発行する部だ。

 そういえば、大学入学直後に忍もインタビューを受けた。文化面を担当する学生記者から連絡が来て、紙面には『天才高校生作家、慶安に入学』なんて見出しがついた。

 腹が立つほど、昔のことだ。

「その天才高校生作家の榛名さんが、どうして陸上部の練習を見学してるんですか? まさか、新作は陸上部を題材にするんですか?」

 興奮を喉の奥に押し込めるようにして、福本という学生記者は聞いてくる。

「いや、まだそんなちゃんと決まってないけど……」

《まだ》なんて言ってしまって、慌てて口を噤む。学生記者は聞き逃さなかった。

「取材なら、こんな遠くから見てないで中に入ればいいじゃないですか。うちの陸上部、そういうのは結構ウエルカムなんですから」

 そう言うと、彼女はフェンスを引っ摑んでグラウンドに向かって声を上げた。「ちょっと待って!」という忍の声は、見事に搔き消された。

「すみませーん! 新聞部の福本ですー! なんか、ここに作家の榛名忍さんが来ててー! 陸上部の練習を取材したいらしいんですけどー!」

 近くにいたマネージャーらしき男子学生が気づき、驚いた様子で駆けてくる。

「ご安心ください。私、慶安新聞のスポーツ班にいて、陸上部の担当なんです」

 誇らしげに胸を張る福本を余所に、忍は「うわああ……」と頭を抱えた。


2|駅伝じゃなくて?

「え、駅伝じゃなくて競歩の取材なんですか?」

 グラウンドの端を歩きながら、福本が忍の方に身を乗り出す。陸上部のマネージャーも困惑した様子で「え?」と繰り返した。

「えーと、そもそもまだ書くかどうかも決まってない段階で、試しに練習風景を眺めてみようかなって思っただけで、取材までしたいわけじゃないっていうか……」

 言い訳を一枚一枚積み重ねると、福本がさらに怪訝な顔をした。

「しかも競歩なんですか? 駅伝じゃなくて?」

 口を半開きにして、「さすが、天才高校生作家。目の付けどころが違う」なんて続ける。こいつはもしかして、さっきから俺を馬鹿にしているんだろうか。

「競歩の選手が見当たらなかったんで、今日はもういいかなって思ってたんですけど」

 福本のことは一旦無視し、前を行くマネージャーに問いかけた。「KEIAN」と背中に書かれた瑠璃色のジャージは、秋の日差しに照らされて上等な鉱物のようだった。

「いえ、いますよ。ただうちは今、競歩の選手が一人しかいないんで」
「え、でも、陸上部のホームページには三人いるって……」

「去年までは三人いたんですけど、全員卒業しちゃったんです。すみません、うちのホームページ、ほとんど更新してないんで、古い名簿のままなんだと思います」

 申し訳なさそうに言うマネージャーに、「いやいや更新サボるにも程があるでしょ」という文句を吞み込む。もうすぐ十一月だというのに、部員名簿が去年のままだなんて。

「その三人が卒業したってことは、一人だけいる競歩選手ってのは一年生なんですか?」

「いえ、二年です。長距離走の選手だったんですけど、夏から競歩に転向したんです」

 そこまで言って、マネージャーがグラウンドを見回す。隅でストレッチをしていた人物に向かって手を振った。

「おーい、八千代ぉー!」

 右足を大きく曲げてアキレス腱を伸ばしていた選手が顔を上げ、こっちを見る。

「何かお前のこと取材したいって小説家さんが来てるけどー!」

 ああ~やめてくれやめてくれ! マネージャーの口を塞いでやろうかと伸ばしかけた手で自分の顔を覆って、忍は溜め息をついた。

「だから、まだ書くとは決めてないんだってば……」

 喉の奥から絞り出して、顔を上げる。こちらを探るような顔でやって来た八千代という男の顔を見て、息を吞んだ。

「お……」

 夏の茹だるような暑さを、肌を焼くような強い強い日差しを、思い出す。エアコンの冷たい風が頰を撫でた気がした。あんな劇的な出会い、忘れようがない。

「オリンピック号泣男……」

 八千代の目が自分を捉えた。向こうも驚いた様子で忍の顔を見つめる。気まずさに、時間が固まってしまう。互いの顔を凝視したまま、動けなくなる。

 福本が、そんな忍を見る。八千代を見る。再び忍を見る。首を大きく傾げて、八千代のことを指さした。

「陸上部二年の八千代篤彦先輩です」

 今度は八千代の方を向き、忍を指さす。

「こちらは、元天才高校生作家の榛名忍さんです」

 天才高校生作家という呼び名も嫌だけれど、《元》がつけられるのもだいぶ嫌だな。八千代から目が離せないまま、そんなことを思った。

「えー、と……」

 八千代篤彦という男は、忍より背が高かった。黒い瞳が忍のことを探るように見下ろしてくる。ちょうど日差しがその長身に遮られて、彼の顔に影がかかって見えた。

 不自然な沈黙に、マネージャーが困惑し始める。福本が嫌な食感のものでも食べたような顔で忍を見る。

 それでも、八千代篤彦は何も言ってこなかった。「突然でびっくりしちゃいました。取材って何ですか?」なんてフランクな反応をするつもりなど微塵もない顔だ。

「文学部日本文学科の、榛名忍です。作家をやってます……」

 一応、とつけそうになって、心臓が一度だけ大きく脈打った。自分の中にある作家としての自尊心だろうか。

「スポーツ科学部の八千代です。練習が見たいんでしたら、お好きにどうぞ」

 苛立ちや煩わしさが伝わってくる声色ではなかった。見たいんならどうぞ。でも、それ以上は入ってこないで。そんな風に、目の前に幕が下ろされた。

「話すの苦手なんで、インタビューとかは協力できないですけど」

 それだけ言うと、八千代は忍に背を向けトラックへと走って行ってしまう。ストップウォッチを持つ男子学生に声を掛け、二、三言葉を交わす。

 そして、そのまま歩き出す。腕を振り、足の裏で地べたを這うように、歩く。

「すみません、八千代、結構人見知りするんで」

 男子マネージャーがそんなフォローをしてくれたけど、忍は曖昧な相槌だけを打って、じっとトラックを見ていた。「監督には僕から伝えます」と言って、マネージャーは自分の仕事に戻っていく。

 夏に見たオリンピックの映像よりゆったりとしたペースで、八千代は歩いていた。もしかしたらそういう練習なのかもしれない。

 けれど、八千代がトラックをぐるりと回って忍の前を通過するのを――「駆け抜けて行く」としか表現しようがない姿を目の当たりにして、無意識に呼吸を止めた。

 真っ青なトラックを、白いシューズを履いた八千代の足が、蹴る。力強い何かが忍のところに伝わってくる。足の裏がむずむずと熱くなってくる。腕を振るたびに、足が前に繰り出されるたびに、体のしなる音が聞こえてきそうだった。

「榛名さん、競歩には詳しいんですか?」

 福本が聞いてくる。

「いや、全然」
「なのに小説の題材にするんですか?」
「だから、まだ書くって決めたわけじゃないから」

 八千代の背中がどんどん遠ざかる。腕が前後する。でも腰や肩の位置がほとんど動かい。二本隣のレーンを走っていた選手が八千代を追い越していく。彼が走る姿は、柔軟なのにエネルギーに満ちあふれている。人間も動物の一種なのだと思い知らされる。一方競歩のフォームは、それとは正反対に見えた。人間の自然な歩く姿とはかけ離れている。ルールでがちがちに固定されてしまった、窮屈な姿。全身に鎖をまとっているみたいだ。

「普通に長距離走やればいいのに」

 ぽつりと呟いたら、福本が小さく溜め息をついた。温度が感じられない、本当に呆れている溜め息だ。

「本当に知らないんですね」

 苛立ち混じりに忍を見上げてくる。腕につけたレモンイエローの腕章が、眩しかった。

「八千代先輩の走ったときのタイムは、速くないです。部内で下から二番目です」
「え、そうなの?」
「今年入学した一年生と勝負しても、余裕で負けちゃいます。今年の一年、速い子がたくさんいるんで、歯が立ちません」

 離れていく八千代の背中を見つめながら、忍は福本の言った「歯が立たない」という言葉を反芻した。ただの言葉が、歯の神経に染みた。

「じゃあ、夏から競歩に転向したっていうのは……」

「長距離走ではもう慶安の陸上部でやっていけない。だから、長距離走を諦めて、競歩を選んだんです。ていうか、取材するならそれくらい下調べして来るものじゃないんですか? 何も知らない状態で現場に来たって、いいネタは摑めないですよ?」

「だから、俺は取材するつもりなんて最初からなくて、遠くから練習を眺めていたかったの。競歩のルールも全然知らないし」

 それを君が……と言いかけて、ハッと気づく。

「あの八千代って選手、二年なんだよね?」
「そうですよ」
「君、彼のことを《先輩》って呼んでたよね」
「はい、先輩ですから」

 何食わぬ顔で福本は頷いた。

「……ていうことは君、一年なの?」
「あれ? 言ってませんでしたっけ? ピカピカの一年です。榛名さんと同じ文学部の」

 顔の横で可愛らしく(悪く言えば、ぶりっ子丸出しで)Vサインを作ってみせる福本に、榛名は堪らず声を大きくした。

「一年なのに先輩に対してその図々しさはどういうことだよ。大体、俺が先輩だって知ってて《元天才高校生作家》なんて言ってただろっ?」
「もじもじ遠慮してたら記者は務まりません」

 本当に一年かよ、こいつ。一歩後退って、忍は顔を顰めた。この学生記者には気をつけよう。本当に気をつけよう。そう心に決めた。


3|ロス・オブ・コンタクト

 ……決めたはずなのに、どうして福本愛理とラーメンを食べる羽目になったのだろう。

「榛名さんって、取材して小説を書いたりしないんですか? 自分の中の引き出しから物語を作る、ってやつですか?」

 ずるずると大盛りラーメンを啜りながら、福本が忍を見る。本当によく喋る子だ。

「それにしたって、ロス・オブ・コンタクトとベント・ニーも知らないなんて、そんなんじゃ取材にならないですよ」

 今日の練習の終了直前に、福本がトラックを歩く八千代を見ながら言ったのだ。

『八千代先輩、膝が曲がってるように見えません? レースだったらベント・ニー取られちゃうんじゃないかな』

 あまりに聞き慣れない言葉で、咄嗟に『……外国の俳優?』と聞き返してしまった。

『ベント・ニーも知らないで競歩の取材に来たんですか? ということはロス・オブ・コンタクトも何かわからないまま見学してたってことですよね?』

『……洋画の名前?』と答えた忍の首根っこを摑むようにして、福本は大学の側にあるこのラーメン屋へと駆け込んだのだ。

「慶安新聞スポーツ班のこの福本愛理が、競歩のルールを説明して差し上げます」

 濃厚な鶏ガラスープが絡んだ麺を口に詰め込みながら、鼻息荒く福本は言う。自分のラーメンを食べるタイミングが摑めないまま、忍はわずかに身を引いた。

「ど、どうも……」

「そもそも、競歩はただ長い距離を歩く種目じゃないんです。ルールに沿った歩形、つまりフォームを維持して歩く競技です。タイムや順位を競うのはもちろんですけど、審判員の判定次第では、一位でゴールした選手が失格になることもあります」

 そこで言葉を切った福本は、レンゲでスープを一口飲む。「美味いしい、鶏にこだわってるなあ」と満面の笑みを浮かべた。

「榛名さんが洋画のタイトルと間違えたロス・オブ・コンタクトは、両方の足が地面から離れてしまったときに取られる反則のことです。競歩は、常にどちらかの足が地面に接してないといけないんです」

「両足が地面から離れたら、走ってるって判断されるのか」

「その通りです。あと、前に出した方の足は接地の瞬間から地面と垂直になるまでの間、膝を曲げてはいけないんです。膝を曲げてしまうと、榛名さんが外国の俳優と間違えたベント・ニーという反則を取られます」

 片足を地面から離さない。前に出した足が地面と垂直になるまで膝を曲げない。その両方を適えると、確かにあの独特のフォームになる。本当に、ルールでガチガチに縛られた走り方――いや、歩き方だ。

「競歩はマラソンと違って、周回コースでレースが行われます。コースには審判員がいて、前を通る選手の歩形をチェックするんです。違反の恐れがあると判断したら黄色い札で注意します。札を出された選手は『このままじゃ違反になっちゃうな』と、フォームを修正するんです。それでも立て直せず、審判員に明らかに違反してると判断されると今度は赤い札を出され、これが三枚溜まると失格になります」

 サッカーで使われるイエローカードとレッドカードを思い浮かべながら、忍は普通盛りラーメンの麺を啜った。

「これが競歩の基本ルールです。これだけわかれば、レースも楽しめます」

 ルールはわかったけれど、レースが楽しめるかどうかは別問題な気がした。逆にこのルールが足枷になっているから、競歩はマイナー競技なんじゃないだろうか。「一番にゴールした人が勝ち」じゃない。「ボールがゴールに入ったら一点」じゃない。見た目のわかりやすさがないスポーツは、なかなか大衆に受け入れられないだろう。

 分厚いチャーシューを齧りながら、ふと、同じようなことを誰かと話したのを思い出した。ああ、そうだ、俺の小説だ。俺の小説も、とある編集者からそんな風に言われた。

『わかりやすさがないと駄目だよ。榛名忍さんに興味のない人でもぱっと振り向くような、わかりやすくてキャッチーな要素をもっと盛り込まないと、今は厳しいですから』

 夏前に打ち合わせた編集者だった。「キャッチーな要素」というのがどうしても思い浮かばなくて(ついでに言うと、その編集者のぐいぐい来る感じが苦手で)、仕事の依頼は断った。大学三年に上がったらゼミが忙しくて、と白々しい噓をついて。

「榛名さん? ラーメン伸びますよ?」

 福本に顔を覗き込まれ、忍は我に返った。

「随分暗い顔で考え込んでましたね」
「まあ、ちょっとね」

 喉の奥から声を絞り出すように、忍は頷く。余程味が気に入ったのが、福本は幸せそうな顔で麺を啜っていた。

「元現役高校生作家さんも、いろいろ大変なんですね。確か一九九六年をピークに市場規模が縮小し続けてるんですよね、日本の出版って。新聞も似たような状況ですけど」

 持ち上げたままの箸を慌てて口へ運ぶ。すっかり冷めた麺は異様に味が濃くて、重たくて、啜るのに力が必要だった。

 ずるずる、ずるずる。

 麺を咀嚼していたら、胸の奥からいろんなものがあふれ出てきそうになった。出版社の編集者達は、まだ、俺に期待しているんだろうか。果たして二〇二〇年まで俺は作家をやれているんだろうか。ああ、そもそも問題は競歩小説だ。この福本という学生記者にルールは教わったけれど、小説にできる気がしなくなってきた。

「……ああ、大変だよ、小説家って」

 脳裏にまた、歩く八千代が浮かぶ。薄曇りの夜空に満月が浮かぶみたいに、ぼんやりと。

 ルールに四肢を縛られるようにして、その中を足搔くようにして、歩く。

 前へ前へ、歩いて行く。



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小説家。最新刊『風に恋う』発売中。2015年松本清張賞・小学館文庫小説賞受賞。既刊『屋上のウインドノーツ』『ヒトリコ』『タスキメシ』『さよならクリームソーダ』『拝啓、本が売れません』など。詳しくは>>>http://nukaga-mio.work/

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