風に恋う帯無し

風に恋う|第1章|08

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 徳村が夕食を食べ終え、「あと三本、原稿が残ってるから……」と言って自室に引っ込み、瑛太郎も風呂に入って自分の部屋に戻った。

 瑛太郎が契約社員として勤めていた学習塾を辞めたのが去年の年末。大学卒業後に広告制作会社へ入社した徳村が、「こんなブラック企業にいたら殺される!」と退社してフリーライターになったのが今年の一月。ちょうどアパートの更新時期が近づいていたから、一緒に住むことになった。月の家賃を三万円に抑えられるのはありがたい。

 フリーター状態なんだから、という愛子さんの言葉を思い出し、瑛太郎は肩を落とした。フリーライターである徳村の方が、会社員時代の人脈を活かして仕事をかき集めているから、まだ稼ぎはいいはずだ。瑛太郎に至っては吹奏楽部のコーチくらいしか今は収入がない。

「金のためじゃないとはいえ、ちょっと厳しいよなあ……」

 ぼそりとつぶやいて、瑛太郎はキャスター付きの椅子に腰を下ろした。六畳の洋室にはベッドと机と本棚しかない。机の上には今年の吹奏楽コンクールの課題曲の楽譜が山になっている。

 しかし、もう少し部の雰囲気を知ってからでないと選べそうにない。

 金を稼ぎたくてコーチを引き受けたわけではない。恩師からの頼みを無下にしたくなかったし、OBとして吹奏楽部の危機を救いたいとも思った。でも一番は、見つけたかったからだ。

 かつて千学吹奏楽部で全日本吹奏楽コンクールに出場することに命を賭けていた自分が今、何をできるのか。何がしたいのか。あの時間が自分に、何を与えたのか。

 一体どれくらい楽譜を眺めていただろう。ふと顔を上げたら日付が変わっていて、濡れていた髪はすっかり乾いていた。

 コーチの仕事は放課後のみだ。朝早く起きて出勤する必要もない。せっかくだから課題曲の参考演奏を聴いて、もう少し考えようか。そう思い、ノートパソコンを立ち上げたときだった。

 メールが一通、届いていた。

「……マジかよ」

 彼女からメールが届くと「マジかよ」と声に出してしまうようになったのは、大学を卒業してからだ。同じような場所を歩いていると思っていた相手が、遥か遠くに、いとも簡単に飛び立ってしまってから。

 額に手をやって、瑛太郎はメールを開封する。件名は『お久しぶり』。一年以上会っていないのに、メールの本文は短かった。

『ついに吹奏楽部の顧問になったってね! 約束通り作ったよ。いい感じにできたから、知り合いのバンドに演奏してもらった。今年の自由曲に使って』

 そして、ファイルが二つ添付されていた。文面からその中身が何なのかわかってしまったけれど、瑛太郎は急いでファイルを開いた。

 画面に楽譜が表示される。同時に音声ファイルが再生された。パソコンのスピーカーから聞こえてきたのは、鉄琴の澄んだ音と、教会の鐘のようなチャイムの響きだった。低音楽器が響いてくる。深く深く、聴く者の体を抉るようにして。

 息をついた瞬間、目の前で光が弾けた。トランペットやサックス、フルートやクラリネットの音色が重なって、鋭いシンバルの音と共に舞い上がる。音が風になって部屋に吹き荒れ、腰掛けていた椅子から崩れ落ちそうになった。背もたれにしがみついて、楽譜を睨みつける。曲の進行に合わせて音符を目で追った。難しいことなど考えないで、素直に、従順に、この曲に身を任せろ。音楽の神様が、そう耳元で囁いている。

何度目かの音符の煌めきに打ちのめされそうになって、瑛太郎はパソコンを閉じた。音は止み、部屋は静かになる。

「あー、もう、やられた」

両手で髪の毛を搔きむしり、溜め息をつく。本当なら地団駄を踏みたい。

「くっそぉ……楓の奴」

 海と空を越えた遠い異国の地から、こんな強烈な爆弾を投げてくるなんて。何が今年の自由曲だ。俺は顧問になったわけじゃない。外部指導者という名前だけは立派なフリーターだ。誰だ、楓にこのことを教えたのは。中学の同級生の誰かだろうけど、余計なことをしやがって。

 ああ、でも――。

「いい曲だ」

 悔しいけれど、とてつもなくいい曲だ。瑛太郎自身が演奏してみたくてうずうずしている。

 全日本の舞台でこれを披露したら、きっと、凄いことが起こる。

 顔を上げ、瑛太郎は再びパソコンを開いた。一時停止された音声ファイルを横目に、メールの返信を打つ。長文で返すのも癪だったから、短く簡潔に。

『タンスの角に足の指ぶつけちまえ!』

 奴のいるベルリンのアパートに果たしてタンスがあるかは知らないが、これが最大限の賛辞だと気づけないほど自分達は他人同士ではない。

 送信完了の文字を睨みつけながら、瑛太郎は送られてきた曲の名前を改めて見た。

「……《狂詩曲『風を見つめる者』》」




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