
猫と狸と恋する歌舞伎町|序章
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一言で言うなら、彼はお星様だった。
「今日は、ミケにしよっかな」
いかにも今っぽい大学生という姿をした彼は、誰へともなくそう呟いて、細長い指でガラスケースを指さす。
今の独り言、私に向かって言っていたのだろうか。シフトに入るたびに彼は店に来るから、いい加減顔を覚えられた気がするし。でも、どうなんだろう。
こういうときどうするべきなのか、私はよく知らない。
「ミケですね。かしこまりました」
結局そんなことしか言えなかった。ガラスケースのドアを開けて、《ミケ》という名前がつけられたきなこ味のドーナツをトングで掴む。猫のしっぽのような棒状の風変わりなドーナツ(しかも猫みたいな名前の)をトレイにのせてレジの横に置くと、彼はすでに財布から小銭を取り出していた。
「あ、袋いらないから」
慣れた様子で、彼は言う。猫のしっぽの形をしたドーナツを売る店に来るお客は、女性客やカップルがほとんどだ。こんな若い男の子が一人で来るのは、凄く珍しい。しかも、週に何度も。そんなに甘いものが好きなんだろうか。それとも、可愛いものが好きなんだろうか。こういう、朗らかで人懐なつこそうな子は、今まで近くにいたことがなかったから、私にはよくわからない。
しかも彼は、お星様のような金色の目をしている。彼が店に来るたびに、私はどうしてもその目を見てしまう。ロマンチックな比喩ではなく、私の頭がきらきらのお花畑になっているわけでもなく、本当に、金色をしている。青い目とか緑色の目ならわかるけれど、金色だなんて。
本当に、お星様みたいだ。
「どうしたの?」
星が、私を見る。首を傾げて、日向の匂いがしてきそうな穏やかな顔で、「俺の顔に何かついてる?」なんて聞いてくる。しくった。お星様、お星様って、じろじろ見すぎた。
「あー……その、ですね」
あー、うん、そうそう。口の中で言葉をこねくり回して、私は彼に笑いかけた。ほんの少し頬が引き攣った気がして、慌てて口を動かす。
「新作、今日からなんですけど、いかがですか?」
ガラスケースの端に置かれた新商品の《ブチ》――チョコチップを生地に練り込んだドーナツを私が手で指し示すと、彼は金色の目を瞬かせて、こちらをじっと見てきた。
「チョコチップ、サクサクしてて美味しいです」
そう付け足すと、ゆっくりと、まるで綿毛が飛ぶみたいに、彼は微笑んだ。口元を猫のひげ袋みたいに柔らかく緩めて、
「そっか」
なんて、私に笑いかける。
「じゃあ、ブチもちょうだい」
再び彼が財布を出す。私は急いでドーナツをもう一本ケースから出して、持ち帰り用の紙袋に入れる。百円玉を二枚受け取って、お釣りをレジから出す。
何だかもう少しこのお星様の彼と話をしたい気分になる。天気の話でも、今日の朝ご飯のメニューの話でも、好きなおにぎりの具材の話でも、何でもいいから。せめてその目はカラコンなの? それとも本物? と聞いてみたくなった。
「あのうっ」
小銭を手渡そうとした瞬間、彼の掌で十円玉が転がって、私は「んぎゃー!」と叫んでいた。十円玉はガラスケースの上に落ちて、床に落ちて、店の隅へと勢いよく転がって行ってしまう。
「ごめんなさい」
十円玉を拾おうとした彼より先にカウンターを飛び出して、十円玉を拾い上げる。
そんな私の背中に、あははっ、という笑い声が飛んできた。炭酸の泡が、しゅわりしゅわりと私の視界を覆い隠したような気がした。
「ごめん、ありがとう」
私の掌から十円玉を拾い上げて、彼は肩を揺らした。唇から微かに、綺麗な形をした八重歯が覗いた。獣の牙のようなそれは、彼の笑顔を不思議と華やかなものにした。
この人は、この金色の目で、世界をどんな風に見ているんだろう。無性に知りたくなって、必死に自分の中で言葉を探した。
「綺麗な目でしょ」
私の心を、読んだのだろうか。突然、彼が自分の目を指さして言う。
「珍しいからときどき変な目で見られるけど、結構気に入ってるんだ」
笑みを浮かべた彼が目を細めると、本当に星が瞬いたみたいだった。
「お星様みたいですね」
言葉を紡いだ瞬間、頬が緩みそうになる。「また来ます」と言って店を出て行くその背中を見送りながら、自分の頬をぎゅうっとつねった。自分でやっておいて、「痛たたたた……」と声が漏れる。でも、そうじゃないとこのまま顔が溶けてなくなりそうだった。
彼は恐らくまたこの店に来る。私が働いている時間に、きっとまた来る。そのときはきっと、これまでとは違う会話を、私達はする。
想像したら、何だか、口の中がドーナツでも食べたみたいに甘くなった。
でも、同時に、こうも思う。
「駄目なんだよね」
自分の頬をつねったまま、そう呟く。誰も聞いてないし、聞いてくれないし、理解してくれない。いや、理解なんてさせちゃいけない。
彼だけじゃなくて、このドーナツ屋の店主にも、バイト仲間にも、よく行く総菜屋のおばちゃんにも、喫茶店のマスターにも、アパートのお隣さんにも。誰にも、私の素性を、正体を知られちゃいけない。誰にも嫌われたくない。側にいてほしい人に離れていってほしくない。怖がらせたくない。気味悪がらせたくない。
まだ名前すら知らないお星様の彼に対して、そんな胸の痛みを感じた。
もし、もう一度彼に声を掛けられたら、そのときはこの痛みに名前をつけようと思う。
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