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競歩王|01|オリンピック号泣男

1|リオ五輪

 浸るのとは違う。沈み込むのとも、違う。
 強いて言うなら、海に突き落とされたみたいなものだ。懸命に水を搔いて、海面を目指してもがく。助けを求めることもできない。だって、飛び込んだのは俺自身なのだから。

「――ねえ、忍」

 榛名忍を海から引き上げたのは、亜希子の声だった。

「そんな苦しそうな顔で読書しないでよ」

 石原亜希子の声は、ビー玉越しに見上げた空のような澄んだ響きをしている。聞き慣れているはずなのに、「綺麗な声してんな」と思うときがあるくらいに。

 顔を上げると、古びたステンドグラスを背景に、亜希子は呆れ顔で頰杖をついていた。

「あと、食べるか読むかどっちかにしなよ」

 忍が右手に持ったスプーンを、左手に持った本を、亜希子が順番に指さす。

「もうちょっとで三章が読み終わるんだよ」

 単行本のページを捲ろうとした瞬間、スプーンからビーフカレーが滑り落ちた。柔らかく煮込まれた牛肉が皿の縁に落下し、テーブルにルーが飛ぶ。

「ほら、言わんこっちゃない」

 テーブルの隅に置かれていた紙ナプキンを渡され、忍は本をソファの上に置いた。テーブルを拭き、潔くカレーを食べることにする。

「そんなに他人の本を読むのがしんどいなら、読まなきゃいいのに」
「本が売れないこのご時世に作家まで本を読まなくなったらおしまいだ」

 すっかり冷めてしまったカレーを口に運びながら、忍は唸る。亜希子は自分の分のナポリタンを食べ終えてしまったらしい。彼女の手元には食後のコーヒーだけがあった。ランチタイムで賑わっていたはずの店内も、すっかり静かになっている。

「でもさあ、忍、あんた自分が本読んでるときの顔、鏡で見たことある?」
「亜希子がこの前盗撮した写真で見たよ」

 大学のラウンジで本を読んでいた忍を盗撮した亜希子は、「見て! この眉間のふか~い皺!」と楽しそうに写真を見せてきたのだ。

 眉と眉の間に紙でも挟めそうな深い皺を作って、今にも嘔吐しそうな顔で本を読んでいる自分の顔は、意味不明だし気色悪いし滑稽だった。あと、哀れだった。

「小説家も大変だよね。読むのが辛いのに本を読まないといけないんだから」
「本を読む時間も取れないほど忙しいわけでもないしな」

 むしろ時間は有り余っている。大学での勉強を優先するとか、将来のために今は大学生活を謳歌するとか、それらしい言い訳はいくらでもできるし、現にしている。

 勉学に集中しつつキャンパスライフを楽しむには充分すぎる時間が、忍には――小説家・榛名忍にはあった。

 榛名忍が作家デビューをしたのは、今からおよそ三年前。高校三年生の――二〇一三年の秋だった。正確には二〇一三年九月八日。二〇二〇年夏季オリンピックの開催都市が、東京に決まった日。あの日、榛名忍の本が全国の書店に並んだ。

「天才高校生作家誕生」という派手な帯が巻かれたデビュー作は、「文壇にスーパー高校生現る」とニュースにも取り上げられた。テレビにも出た。新聞にも雑誌にも載った。

 華々しかった。去年の夏、花火大会で亜希子と見た、盛大な打ち上げ花火みたいだった。

 色とりどりの火花が舞って、消える。残ったのは、真っ暗な夜空だった。

「まずいかもなあ……そろそろ」

 皿の上に余ったルーをスプーンで搔き集め、口に運ぶ。亜希子は肩を揺らして笑った。

「まだ担当の編集から連絡来るんでしょ? なら大丈夫じゃない?」

 私にはわかんないけどさー、という顔で、彼女はコーヒーカップを空にする。店の隅にある時計を確認して、席を立った。

「ほら、行こ。このままだとデザート食べて、夕方までだべることになりそう」

 レジで個別会計をすると、マスターが「今度はケーキ食べて夕方までだべって行きな」と手を振ってくれた。

 この喫茶ブランカは、忍と亜希子が通う慶安大学から歩いて三分のところにある。同じ高校出身の亜希子に連れられて通うようになって、今はすっかり常連になってしまった。

 店を出て、真っ直ぐキャンパスへと戻る。図書館の入っている建物の自動ドアをくぐると、エアコンで冷やされた空気の向こうから、テレビの音声が聞こえてきた。

 ラウンジの巨大な液晶テレビに映っていたのは、地球の裏側で行われているオリンピックの中継だった。

 二週間以上続いたリオ五輪も、今日を入れてあと二日だ。明日には閉会式が行われ、オリンピックの旗は東京都知事に引き渡される。

「凄いよねえ。八月に入ってから毎日、リオ五輪、リオ五輪って」

 夏休み真っ直中だというのに、ラウンジには学生がいた。図書館もラウンジも開放されているから、涼しい場所でサークル活動や勉強をしたい学生が集まっている。

 リオ五輪の放送時間はもっぱら夜から明け方にかけてだ。今の時間帯は、五輪の特集番組やハイライト放送が連日行われている。アナウンサーが現地で日本代表にインタビューしていた。メダルを首から提げた競泳選手へのインタビューが終わると、画面がハイライト映像に切り替わる。

 太陽の照りつける屋外のコースを、日本代表のユニフォームを着た選手が走る。

 ――いや、早足で歩いている。

「ああ、昨日、競歩やってたんだね。よくわかんないよねえ、早歩きの競争なんてさ」

 快晴の青空の下を歩く選手のフォームは、人間っぽくない。普通の人間の《歩く》とは根本的に何かが違う。作りものめいている。日に焼けた肌を汗が伝う。首筋や二の腕、脹ら脛に白く光る筋を作る。

 この人達は、長い距離を誰が一番速く走れるか競うマラソンならまだしも、どうして《歩く》ことを競おうと思ったのだろう。

 競歩の日本代表は随分若い男だった。下手したら忍より年下かもしれない。入賞には届かなかったらしいが、アナウンサーから「四年後の東京オリンピックに期待です!」とエールを送られた。

「……競歩ね」

 呟いた瞬間、背後で声がした。熱に浮かされたような、震える声だった。

 振り返ると、目の前に一人の男がいた。浅黒く細い体をジャージとTシャツで包んで、茶色がかった短髪には汗が滲んでいる。一目で運動部だとわかる風体で、グラウンドの土の香りが今にもしそうだった。

 その両目から涙が流れているのに気づいて、忍は息を呑んだ。

 男はテレビ画面を凝視していた。四年に一度のスポーツと平和の祭典を伝える番組を見つめながら、頰に涙の細い筋を作って。

 静かに激しく、泣いている。

「ねえ、忍」

 ほら、図書館行こう。隣にいた亜希子がそう言いかけて、背後で泣いている男に気づいて「うわっ」と声を上げた。飛び跳ねるように後退って、男から距離を取る。

 そこでやっと、彼の目がテレビから忍へと移った。自分以外の人間がこの世界にいるなんて思ってなかった。そんな顔で忍を見て、首を傾げる。

 男が瞬きをする。一回、二回、三回。瞬きのたびに目尻から涙があふれていく。もしかしたら、自分が泣いていることに気づいてなかったのかもしれない。怪訝な顔をして、はっと息を止めて、慌てた様子で目元を拭った。

 乱暴に手の甲で擦られて赤くなった目元を隠すことなく、男は早歩きでラウンジを出て行った。ギラギラと真夏の太陽が照りつける煉瓦敷きの道を、グラウンドの方に向かって。

「……なんだよ」

 自分と年の変わらない男が公衆の面前で泣くなんて。一体何があったら、どれだけ悲しいことや悔しいことがあったら、そうなれるのだろう。


2|号泣

「号泣してたな」

 我慢しきれず呟いたら、隣に座っていた亜希子がすかさず頷いた。

「ね、びっくりした」

 図書館の四人掛けのテーブルを占領し、各々必要な資料を広げたものの、先ほどの《オリンピック号泣男》の話をしないわけにはいかなかった。

「あれ、どう見てもオリンピック中継見て泣いてたよな?」

「オリンピックに親でも殺されたのかな……あ、今の、小説のネタになりそうじゃない? オリンピックに恨みを持つ若者が、東京オリンピックにテロを仕掛けるサスペンスもの」

「ないよ」
「えー、そう?」
「そういうのがどれだけ鬱陶しいかって知ってるくせに」
「わかってるって、怒らないでよ。じょーだん、じょーだん」

 忍の肩を叩き、亜希子はそのまま自分の勉強に集中し始める。医学部生である亜希子は秋から臨床科目の履修が始まり、毎週のようにテストをこなす必要があるのだという。文学部で人生のモラトリアム真っ直中にいる忍とはえらい違いだ。

「勉強しておかないと死んじゃう」と言って、亜希子は夏休み中も図書館に通っている。忍も、家で根詰めるより図書館の方が捗るような気がして、こうして大学に足を運ぶ。昼は喫茶ブランカへ。大学三年の夏休みを、忍はずっとこんな具合に過ごしていた。

 もしかしたら亜希子は、高校生作家として華々しくデビューしたのにすっかりスランプに陥っている友人を可哀想だと思って、こうして付き合ってくれているのかもしれない。

 等間隔に並ぶ本棚をぼんやりと眺めながら、そんなことを考えた。

 ノートを広げたものの、何もアイデアが出てこず、席を立つ。文学の棚に行ったらもっと焦燥感にかられる気がして、歴史とか哲学とか美術とか、新作のネタになりそうな本を開いては閉じ、また違う本を手に取る。

 榛名忍のデビュー作『ノンセクト・ラジカル』は、二十万部売れた。大学四年間分の学費を印税で払ってもお釣りがきた。

 二作目の『エーデルワイスが歌えない』は、それから一年後に出版された。大学一年の秋だった。デビュー作ほどではないが、売れた。他の出版社から「うちでも書いてほしい」と依頼され、嬉しくて立て続けに本を出した。

 いつも通り小説を書いたのに、一冊出すたびに売上げは奮わなくなった。「パワーダウンした」「デビュー作が一番面白かった」という声が聞こえるようになった。ネットでの評判は……ここ数ヶ月は見ないようにしているから、わからない。「一発屋」とか「消えた」とか言われているかもしれない。

「冴えない顔」

 たいした収穫もないままテーブル席に戻ると、亜希子にそう言われた。

「打ち合わせ当日に何も浮かんでなかったら、そりゃあ冴えない顔にもなるよ」

 あれこれ考えてみたけれど、結局「これだ」と思えるようなネタは出てこなかった。とりあえず叩き台になりそうなアイデアをノートに書き殴って、六時過ぎに図書館を出た。亜希子と一緒に駅まで行って、同じ電車に乗って、忍は新宿駅で先に降りた。

 待ち合わせの時間まで余裕があったから、東口広場を横切って紀伊國屋書店に入った。混み合う一階をあえて避け、二階の文芸書のフロアへ上がった。

 エスカレーターを降りてすぐのところで、足を止めた。

 ああ、来なきゃよかった。

 一番目立つ棚に山積みになっていたのは、よく知る作家の本だった。どうやら昨日が発売日だったみたいだ。小さな唸り声が、口の端からこぼれてしまった。

 側頭部をがりがりと搔いて、できるだけ棚を、本を――自分以外の作家が書いた小説を見ないようにしながら、階段を駆け下りて店を飛び出す。

 結局、用もないのに世界堂で文房具を見て回り、指定されたレストランに向かった。

 店の一番奥の席。歌舞伎町のきらびやかなネオンが見渡せる席に、百地さんはいた。

「百地さん、ご無沙汰してます」

 一礼して、百地さんに促されるまま、気が進まないけれど上座に座る。

「前に打ち合わせたのは五月の連休前でしたもんね。すっかり暑くなっちゃった」

 今年五十歳になるという百地さんは、忍がデビューした玉松書房という出版社の編集者だ。前任から引き継ぐ形でこの春から忍の担当編集になった。

 初めて会ったとき、白髪が交じった鈍色の髪のせいなのか、しわがれた声のせいなのか、いつも口元が微笑んでいるからなのか、物腰が柔らかく人当たりのいい人だと思った。今のところはその第一印象通りの人だ。

「榛名さん、ちょっと痩せました? 夏バテ?」

 百地さんが聞いてくる。ドリンクメニューを広げて、忍は乾燥した唇を指先で搔いた。

「暑いと食欲なくなるんで、夏は毎年体重落ちるんです」
「じゃあ、今日はお肉食べて帰ってください。作家さんは、体が資本だから」

 言葉通り、百地さんは肉料理ばかり注文した。肉料理が売りの店だったみたいで、牛肉のいろんな部位が盛り合わせになった皿が次々と運ばれてきた。

「次の作品の構想は、いかがですか」

 一際大きな牛肩ロースをナイフでざくざく切り分けながら、百地さんは言う。
 うーん、そうですねぇ……なんて歯切れ悪く答えながら、肉にフォークを突き刺した。
 前任の担当者の頃から、かれこれ一年近く「次回作の構想」について話し合っている。

「雑談でもしながら打ち合わせしましょう」と百地さんは言うけれど、毎度毎度タダで食事をさせてもらって、次回作のネタも出せないのはまずい。

「もしないようだったら、僕の方から提案があるんですけど」

 その言葉に、体のどこか――胸の奥なのか眉間なのか鼻孔なのか、はたまた腹の底なのか……とにかく、榛名忍のどこかが、安堵する。

「今は二〇一六年の夏。世間はリオ五輪で大盛り上がり。さて、四年後は?」
「……東京オリンピックですね」

 脳裏にちらりと、自分が小説家としてデビューした日のことを思い出す。

 忍が玉松書房主催の文藝松葉新人賞を受賞し、デビュー作『ノンセクト・ラジカル』が刊行されたのは、二〇一三年の九月八日だった。

 その日の早朝、二〇二〇年の東京オリンピック開催が決まった。ニュースというニュースが国際オリンピック委員会の総会の様子を伝え、滝川クリステルがプレゼンテーションで発した「お・も・て・な・し」という言葉はその年の流行語大賞にもなった。

 オリンピック開催決定に日本中が沸いたその日、『ノンセクト・ラジカル』は書店に並んだ。しかもそのストーリーは、東京オリンピックで盛り上がる日本を舞台に、お祭り騒ぎを楽しむ「多数派」に属せない中高生のひと夏を描いたものだった。「予言の書だ」とか「現代っ子の本当の青春を代弁する一冊」と言われたりした。

「榛名さんはデビュー作で東京オリンピックを書きました。実際に開催される二〇二〇年の東京オリンピックに向けて小説をじっくり書いてみる、なんていかがですか?」

 いつの間にか食事の手を止めて、百地さんは忍を凝視していた。

「スポーツ小説ってことですか? 俺、得意なスポーツなんてないですけど」

 中学、高校と帰宅部で、図書室に引き籠もって本ばかり読んでいた。スポーツに賭ける熱い青春なんて、忍とは対極の存在だ。

「じゃあ、リオ五輪は何を観ました?」
「テレビで話題になってるレースとか試合を、少しだけ」

 言いながら、俺は作家失格なんじゃないか、と思ってしまう。自分が編集者だったら「お前、やる気あるのか」と怒鳴りつけるかもしれない。世間が楽しんでいるものを見聞きして、そこからヒントを見つけてくる努力くらいしろと。

「でも、やってみましょうか、スポーツ小説」

 取り繕うように、誤魔化すように、もしくは懇願するように、そう言った。

「書いたことないですし、挑戦してみるのもアリかなって思います」
「本当ですか? よかったあ、榛名さんが乗ってくれて」

 歯を覗かせて笑った百地さんは、意気揚々とステーキを口へ運ぶ。

 挑戦。この言葉を口にするのが、最近怖くなった。一月に出した『噓の星団』という本が、増刷がかかることなく低調に終わってから、特に。

「テレビじゃオリンピックのハイライトばっかりやってますし、いろいろ見てみます」

 短距離走、リレー、マラソン、競泳、柔道、体操。それらしい競技の名を口にしようとして、何故か声にならなかった。アスリートの姿が在り在りと浮かんで、目が焼かれそうになる。あんなきらびやかで燦々とした、汗と熱量の塊を俺は物語にできるのか。

「……競歩」

 周囲の客や店員の声に搔き消されそうな声だったのに、百地さんは「はい?」と身を乗り出した。

「いや、今日、学校で競歩のニュースをちらっと見たんで」

 そのあと、背後で号泣してる奴がいたんですけど……とは、言わないでおく。

「そういえば昨日でしたね。競歩の長崎龍之介でしょ? もう少しで入賞だったのに。彼、榛名さんと一歳違いとかじゃないかな? 東京体育大の学生だから」

 一際分厚い肉を頰張った百地さんの口元が、機嫌良く緩む。嫌な予感がした。

「競歩なんて、いいかもしれないですね」

 ほら、やっぱり。

「いや、ちょっと、マイナーすぎませんか? マラソンならともかく、速く歩くだけの競技が小説になると思います?」

 スポーツ小説の醍醐味といったら、臨場感たっぷりのレースや試合シーンだ。試合終了間際の一点を争う攻防、抜きつ抜かれつでゴールを目指す選手達の息遣い。果たして競歩でそれができるのか。

「せっかくだから、競歩の選手を取材して書いてみませんか? 榛名さん、そういうのまだやったことがないでしょ?」

 あの人間っぽくない、作りものめいた不思議なフォームで走る……いや、歩く選手達の姿を思い浮かべて、忍は口をへの字にひん曲げた。

「いや、でも……」

 言いかけて、代案もなしに何を言えばいいのかわからなくなる。仕方なくナイフで切り分けた肉を頰張り、咀嚼しながら言葉を探した。

 俺は何が書きたいのだろう。何を書けば、編集者は、出版社は、読者は喜んでくれるのだろう。俺はプロの作家だ。売上げのことだってちゃんと考えないと。もう、小説家を夢見ていた頃の自分じゃないのだから。夢は現実になって、仕事になったのだから。

 何を、何を。肉を嚙み切りながら胸の奥で繰り返し――最終的に「競歩も一つのアイデアとして考えてみます」という、傲慢で曖昧な返答をした。

 百地さんの提案に乗ったことにすれば、上手く行かなかったとき、本が売れなかったとき、自分にのしかかる責任が軽くなるような錯覚がしたからだ。

3|1964年

 十時過ぎに店を出たけれど、夜の新宿はまだまだ賑やかで、明るくて、騒がしい。

「榛名さん、桐生さんの新刊は読みましたか」

 閉店時間を過ぎた紀伊國屋書店の前で、百地さんがそんなことを聞いてくる。頰に力を入れて、できるだけ明るい声で答えた。それ以外にどうすればいいかわからなかった。

「ああー、まだ買ってないんですよ。今日、紀伊國屋で買えばよかったな」
「うちから出た本なんで、よければお送りしましょうか? 凄くよかったですよ」

 百地さんの言葉をはぐらかしながら、忍は笑った。

 桐生恭詩は、忍と同じ年に作家デビューした。しかも、一週間違いで。しかも、忍の一歳年上の「現役大学生作家」として。

 デビューした出版社は違ったけれど、あの頃は桐生恭詩とセットで扱われることが多かった。文芸誌で対談もしたし、「注目の高校生&大学生作家」なんてPOP付きで二人の本が並べられているのを、書店で何度も見かけた。

 でも、一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月と経過するごとに、棚から桐生の本は消えた。

 彼のデビュー作は『浪人貴族』という名前だった。今から思えば、『ノンセクト・ラジカル』よりずっと面白そうなタイトルだ。でも、売上げが奮わなかった。忍がそれを知ったのは随分後になってからだ。「高校生作家は売れたけど、大学生作家は今ひとつだったな」と出版社の人間が言い合っているのが、たまたま耳に入ってきた。

 高校生作家はそこからスランプに陥り、次回作のアイデアも碌に出せなくなっている。モラトリアム大学生の仮面を被って、その事実から逃げている。

 デビュー作こそ低調だった大学生作家は、大学に通いながら執筆を続けた。二作目、三作目で巻き返し、人気若手作家としての道を順調に歩いている。

 一体、どこで何が違ったのだろう。

「榛名さん」

 黙り込んだまま新宿駅の東口まで来てしまった。立ち止まった百地さんは、近くにそびえる駅ビルを指さす。雑踏の先に「LUMINE EST」という真っ青なネオンが浮かんでいた。

「ルミネがどうしたんですか?」

「このビルはね、ルミネエスト新宿っていう名前になる前は、マイシティって名前だったんです。さらにその前は、新宿ステーションビルと呼ばれてました」

「……それが?」

「このビルの開業、昭和三十九年なんです。一九六四年、東京オリンピックの年です」

 百地さんが言わんとしていることを想像しながら、ルミネエストを見上げた。

「だから何だって話ですけど、ふと、思い出したんで」

 ふふっと笑って、百地さんは再び歩き始める。

 ビルをしばらく見上げて、いや、正確には睨みつけて、忍は百地さんのあとに続いた。



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小説家。最新刊『風に恋う』発売中。2015年松本清張賞・小学館文庫小説賞受賞。既刊『屋上のウインドノーツ』『ヒトリコ』『タスキメシ』『さよならクリームソーダ』『拝啓、本が売れません』など。詳しくは>>>http://nukaga-mio.work/
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