
風に恋う|番外編|栄冠は誰に輝く|01
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珍しく音楽準備室にやってきた三好先生は、カレンダーを眺めて「オーディションまであと五日か」と呟いた。
「みんな頑張って練習してますよ」
「瑛太郎の頃は部員が五十人しかいなかったから、全員がコンクールメンバーだったもんな」
「今頃になって先生の苦労が想像できるようになりました」
実力が追いついていようとなかろうと。意欲があろうと、なかろうと。三好先生は全員を全日本まで引っ張っていった。
オーディションができるということは、それだけ部員達に切磋琢磨の機会が、競争の機会が与えられるということだ。
「あの年は、お前等がちゃんとついて来てくれたからたまたま上手く行ったんだ」
五時半からの合奏まであと二十分ほど。校舎の至るところに散って練習している楽器の音が聞こえてくる。
その音に耳を傾けていたら、三好先生が浅い溜め息をついた。顔を上げると、遠い目をして、音楽準備室の壁にできた雨漏りの染みを見ていた。そういえばあれは、俺が高三のときにできてしまった染みだ。
夏休みだった。台風が接近していて、案の定練習中に嵐になって、「これは今日は学校に泊まることになるんじゃないか」とみんなで言い合っていた。誰も不安なんて感じてなかった。男子高校生が五十人もいたら、台風なんて楽しいイベントの一つみたいなものだった。
その後、誰かが「音楽準備室が雨漏りしてる!」と叫んで、練習を中断してみんなでバケツと雑巾を持って音楽準備室に駆け込んだ。
『全日本に出場して、壁紙を貼り替えてもらいな』
壁にできた大きな染みを見てそう笑ったのは、ちょうど取材に来ていた『熱奏 吹部物語』のディレクターである森崎さんだった。
あの人、今頃何してんのかな。未だに貼り替えてもらえない壁紙を眺めながら、当時三十代後半だった森崎さんの顔を思い出した。
「今の若いもんはって言いたくはないけどな」
神妙な顔で話し出した三好先生に、瑛太郎は慌てて雨漏りの染みから視線を外す。
「今のうちの子供等は、ずーっと指揮者からの指示を待ってるんだ。口を開けて待ってるんだよ、俺がそこに課題を放り込んでやるのを。素直で真面目な連中ばっかりだから、与えられた課題はしっかりこなすんだけどな。だから俺は、課題曲は『スケルツァンド』だけにはしないつもりだった」
「言われると思いました」
「スケルツァンドってのは、《ふざける》とか《おどける》って意味だ。自分の音楽をどう表現すればいいのかもわからない連中に、ふざけてみろってのは難易度の高い要求だ」
「ふざけるって、難しいですからね」
コンクールのステージで、大勢の観客と審査員に見つめられながら、千学は陽気にふざけないといけないのだから。
「『スケルツァンド』は一つのモチーフが形を変えて何度も登場するだろ? シンプルだからこそバンドのサウンドが丸裸にされる。コンクールで演奏するには勇気がいるな」
「いいじゃないですか。多分、他の学校の指導者も同じようなことを考えますよ。俺だって、初めて聴いたとき、思いましたから」
バンドのポテンシャルにすべてが委ねられる。基礎からしっかり音を作った学校が勝つ。それが『スケルツァンド』だ。
「『スケルツァンド』でコンクールを勝ち上がれないなら、他に何をしたって無理ですよ」
「瑛太郎が一年を部長にしたときから、お前が何を言い出しても俺は驚かんと決めたからな」
「それでも、よく茶園を部長に、堂林を副部長にするっていうの、OKしましたよね」
「俺が瑛太郎を千学に呼んだんだ。好きにやれ、存分に」
教え子を信じる豪快な顧問。高校生の頃だったらそう思ったかもしれない。
でも先生は心筋梗塞を患い、瑛太郎はフリーターながらも社会人になった。三好先生が年々減らされる部の予算を工面して瑛太郎をコーチとして呼び戻したのには、他の理由がある。
「ええ、好きにやらせてもらいます」
三好先生にとって、頭を悩ます困った教え子はここにもいるということだ。
誰かが廊下を小走りでやって来て、音楽室に入っていった。そろそろ合奏の時間だ。
第一音楽室へ移動すると、パーカッションの部員が練習に勤しんでいた。鉄琴や木琴の音は軽やかで、日に日に上手になっているのがわかる。ティンパニーの音は、まだあと一歩、思い切りが足りない。
「相田」
ティンパニーに囲まれてマレットを構えていた相田勇馬に瑛太郎は近寄った。「はい」と返事をして、相田は緊張気味にこちらを見てくる。
「パーカスは躊躇しちゃ駄目だ。音がぶれて、ぼんやりとした音になる」
三年生の相田は、こちらの指示を一度でちゃんと理解できる。課題を出せばしっかり取り組むけれど、自発的に「こう表現したい」という願望を持たない。三好先生が言っていた部員の典型例だ。
「自信がないなら、自信以外のものを込めて叩いてみろ。こういう音を出したいとか、何かさ」
そう付け足してみたけれど、相田は「はい」と返事をしたが、本当に飲み込んでくれたのかはわからない。
「他のメンバーとも、今のところ共有しておいて」
そうすれば、部員同士言葉を交わす機会が増えて、何かいい方向に転がらないかな。そんな希望を込めて指示を出した。
「――一人か、堂林」
先ほど音楽室に戻ってきたのは堂林だったようだ。しかし、パートの他のメンバーはいない。
「ペットは今日、バラバラの場所で個人練習してるんです」
自分の席に腰掛け、堂林は瑛太郎を見る。
「ほら、ペットって今八人いるじゃないですか。コンクールメンバーに選ばれるのは六人くらいだろうから、櫻井先輩を筆頭に水面下でみんなバチバチしてるんですよ」
いい傾向だ、という顔で堂林は楽譜を捲る。彼はいい意味でも悪い意味でも、無意味な尊敬と追従をしない子だ。
「こうやって一人早々に戻ってきて、瑛太郎先生にアピールの一つでもしようかと」
トランペットを構えてニッと笑うと、堂林はマウスピースに唇を寄せた。息を吸う音が、楽器の管を通って強調される。呼吸の音だけでそのあとに続く音色の完成度が伝わってくる。
彼が吹いたのは、自由曲『風を見つめる者』のトランペットソロだった。この部分は今回のオーディションの範囲に入れていない。純粋なアピールだ。俺はここまで練習してるし、吹けるぞと。
「どれだけアピールしようと、オーディションの一発勝負で決めるぞ」
「わかってますよ。この前茶園と先生の『スケルツァンド』を聞いちゃったんで、必死になってるんですよ」
「……あれ、やっぱりお前達だったか」
瑛太郎が住んでいるアパートは楽器の演奏は禁止だから、自分で演奏したくなったら学校で吹くしかない。昔よく自主練に使ったあのチャペルは、もってこいの場所だった。
「まだ全然回数を重ねてないから、下手くそだっただろ」
言い訳臭くそう言うと、何故か堂林は目を大きく見開いて、唇と一瞬だけ噛んだ。すぐに「へえ、そうなんすね」と笑う。
「ねえ先生」
パーカッションの部員達がそれぞれの練習に集中し、こちらの話を聞いていないことを、彼が確認したのがわかる。ティンパニーやスネアドラムの音に自分達の会話など掻き消されているだろう。
「どうして部長を茶園にしたんですか」
「それ、全員の前で話さなかったか?」
「話しました。部をぶっ壊して、新しく作り直すためだって。千学に染まってない一年を部長にするって。でもそれって、俺が部長でもよかったってことじゃないですか?」
今度は瑛太郎が黙る番だった。
「確かに茶園は部のことを『駄目だと思う』って言いましたけど、俺だってその場で、同じようなことを言いましたよね?」
どうして自分が副部長で、茶園基が部長だったのか。堂林の色素の薄い目が、そう訴えかけてくる。
「堂林は、部長になりたかったのか?」
核心を突き過ぎたのだろう。一瞬、彼がむっと眉を寄せた。
「決まったことをひっくり返そうとは思いませんけど、ただ、俺に何か足りないものがあったのかなって思って」
「お前に足りないところなんてないよ。強いて言うなら、本当のことを全部はっきりと言っちゃうことかな」
「……それは昔からよく言われますけど」
「でもそれは茶園にないものだから、二人合わせて結構いいバランスを保ってると思うぞ」
合奏開始まで十分ほどになって、続々と他のパートの部員が音楽室に戻ってきた。さすがにこの話を続けるわけにもいかない。
堂林も、諦めた様子で再びトランペットを構えた。
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