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小説 ふじはらの物語り Ⅰ 《侍従と女官》 53 原本

家春の眼差しの中で、『黒髪の女』の作以外は、このように捉えられた。

まず、「お上の御(おん)作は、尚侍のそれと似通っていた。」

お上の御洲浜台も、尚侍のそれも、ともに、中央辺りに“宝蔵のようなもの”が瀟洒然と立っている。

が、尚侍の場合には、それが少しく、山の“背”のある方にズレている。

お上のものには、山がない。

そして、尚侍の洲浜台では、山間(やまあい)の辺りから、二すじ、三すじか、小川のようなものが、サラサラと流れているかのごとくである。

その豁(ひら)けた辺りには、何となく、人々の暮らしの趣きが感じられる。これと言って、具体的にそれを物語るべき縁(よすが)は見られないが。そして、そんな中において、大樹や小籔が、見る者に決して印象深く迫ることなく、適宜な間合いを保ちながら配されてあるのである。

その穏やかな雰囲気は、まさに、梅壺御殿の今を思わせるものである。

そのようなところは、お上の御作にも言えるのであるが、二つの作には、断然と違うところがある。

尚侍のものは、どこか、哀愁が拭えない。

それに較べて、お上のものは、永遠的である。

ご宝蔵の回りには、お壺の前栽宜しく、草木(くさき)、岩石、花畠などか、まるでくせなく、どこが始まりで、どこが終わりか取りつく島のない有り様で、悠揚迫らずに配されている。

“これを目にする者は、自分ならずとも、一瞬、仏の涅槃図を想起するであろう”と、家春は思った。


片や、おそらく紀内侍と思われる者の作は、もちろん皇国(みくに)の光景であろうが、どこかしら、“外(と)つ国のものである”という印象を家春に与えたのである。

それは、構造的には、尚侍の作に近かった。

端的に言うとすると、一方の山々から、一本の川すじが出で来て、平地を巡りながら、他方へと流れ去るというものである。

それは、京(みやこ)の辺りには収まりきらないかもしれないが、海辺に近いところではあり得ると、人は見るかもしれない。

けれども、家春は、その表向き、湿潤な風光に、何かしら、土埃の舞う風情を気取ったのである。

一言にして言えば、そこには、壮大さが秘められてあった。


洲浜台ゆえ、地は、白い細かな砂利であらん。

その平地(ひらち)を、緩やかに弧を描きつつ、青い川面(これは想像である)が泰然と流れ行く。

その岸辺には、草々が、“一時(いっとき)の幸福を謳歌せん”とばかりに、葉叢(はむら)を大きくしなやかに広げているのが見えるが、皆、個々的である。

それらから、少しばかり離れては、大樹の木立ちがそばだってもいる。

やがて、家春の心に、川面に浮かぶ月影が到来するのであった。

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