平成でも健在な日本「イエ」社会

ある勉強会で、公文俊介氏の、日本は、律令国家が最高潮となる、宗教的側面の強かったウジ社会から、主に東国武士団の誕生から連なる「イエ」社会に移っていったとみることができ、その成熟段階は終わった現代でもイエ社会が組織のベースとなっているというような歴史観を聞いた。

色々な議論がされたが、興味深い話として、1970年代に入って、自由の個人主義が謳歌されたり、女性が自由になった主張に対して、彼らはイエ社会を出ていった、あるいは追い出された存在なのだという解釈が適切だというのだ。

もう一つ、ひきこもりは日本特有なのだという話題もあった。仕事もしないでぶらぶらしている人は世界中いくらでもいるが、彼らは別に部屋にこもるということはないらしい。日本のように、周りの人達にあれこれ言われることはないから、そうやって生活できるのだろう。友人の実体験だが、日本では、成人男性が平日の昼間に住宅地を歩いていると職質を受けるのだという。平日に外を歩いているだけで、犯罪者予備軍扱いなのである。(もっとも、これは住宅地を平日昼間に歩いている成人男性が少なく、実際問題として警備の観点では注目せざるを得ないのかもしれない。とはいえ、理由はともかく、引き込ませる要因になっていることには違いない)

このところ、日大のアメフトの話題で持ち切りである。問題となる監督の前の指導者の教え子でエースで実力も部員からの信頼もあった学生に対して、日本代表出場や試合に出ることを奪い、権力で押さえつけていうことを聞かせようとしたという構図のようだ。

多くの人がアメフトの問題に反応するのは、同じような状況の経験があまりになじみがあるからだろう。これは現代だけでなくて、1つのイエに対して忠実に生きるしか選択肢のない状況で、日本の歴史上ありとあらゆるところで起きていたことなのだろう。

とはいえ、記者会見の振る舞いを見聞きすると、いくらなんでも、なぜあんな振る舞いをするのかが不思議に思えるが、

「おっぱい次官」「落ちないおじさん」は、OS(昭和)のアップデートを怠った組織の被害者かもしれない の論考の通りなのだろう。

引きこもりの話とつなげると、ここには多様な理由があるので大きな主語で語ることは間違いもあるかもしれないが、構造的な問題として、日大監督とそれに従う構成員のいるような組織が日本中に存在し、そんな場所に行けなくてひきこもる、という構図はありそうだ。

それはアップデートされていないOSの組織、学校、地域社会であり、その原型はイエ社会にあるといえ、しかもその組織構造は数百年の歴史をもち、さらには、上記の記事にあるように、「昭和の時代に社会で高く評価された組織や業界であること、直接消費者やユーザーと向き合わないこと、そして組織の外に出る人はいても、外から入ってくる人がいない」という状況に合致する。

新しい時代に生きる人たちの大半は都市へ出ていき、地域コミュニティや教育組織にはほとんど新しい人は入ってこず、入ってくるとしても、弱い立場の生徒や新任教師であり、彼らの多くが苦しんでいる、そんな構図になる。

そのOSになじめない人は出ていき、あるいは引きこもり、残る人はそのOSに染まっていく。一度は外の世界を知ったはずだけれども、ダウングレードする、という言い方もできるかもしれない。そんな状況が数十年続いていると考えるとなかなか辛いものがある。

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