【全文公開】新生日本の国家ビジョン『グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生』社会の建設 −違いが強さになる国創り−
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【全文公開】新生日本の国家ビジョン『グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生』社会の建設 −違いが強さになる国創り−

今から15年前に藤原直哉理事長(経済アナリスト・シンクタンク藤原事務所 社長/現 株式会社あえるば 会長)が執筆された 新生日本の国家ビジョン『グレイト・コラボレーション= 偉大なる共生』社会の建設 −違いが強さになる国創り− (2005年/平成17年9月24日)をnoteでも全文公開します。

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第1章 21世紀を迎えた日本の現実

(1) 未来に希望が持てない現代日本社会
21世紀を迎えた日本は、今、大変な困難に直面しています。グローバリゼーショ ン、IT革命、自己責任原則..。こうした言葉と共に急激に変化しつつある我々の社会は、世界規模での競争の激化と強烈なストレスの高まりを生むと同時に、そうした苦難をいくら続けても未来が見えないという絶望的状況に直面しています。年間の自殺者は3万人を越え、どんなに業績が良い企業でも2年間赤字だったら銀行から融資を止められ、今日は勝ち組だと思っていた人が明日は負け組になる、どんなにがんばってもまったく安心感が持てない、どんなに努力しても報われない、気持ちが疲れて未来への希望さえ持てないという絶望的な状況が社会の至るところで急速に広がって います。人々は誇りを失い、絆は断ち切られ、日本の社会は砂粒の集まりのような、 無味乾燥で風に流されるがままの姿に変わり果てています。

(2)地球全体の生態系の危機
同時に今までの技術の延長線上で資源を使い、食物を消費し、増産増収を図る経済活動の結果、地球温暖化を初めとした数々の環境破壊が生まれ、また有害物質との接触や摂取による人体への悪影響が現実のものとして現れはじめ、エイズの流行のように有効な対処が難しい病気が世界中で蔓延し、いまや我々は、地球全体の生態系が根底から覆されようという危機に直面しています。かつて20世紀の時代にも今までのような大量消費・大量生産を続けていたら、あるいは大規模な地球環境破壊を続けていたら、やがて必ず危機が来るということが叫ばれていましたが、21世紀に入ったばかりの地球はいよいよその本当の危機に目の前で向き合うことになったのです。

(3)20世紀型社会の「自家中毒」
もちろんこうした社会問題、生態系の問題に対処することは必要なことではありますが、なぜこうした問題が次から次に生まれて、同時に抜本的な対処が困難になりつつあるのかを考えると、それは今の我々の社会が、20世紀型社会の「自家中毒」にかかっているからではないかと思わざるを得ません。すなわち20世紀の成功の定義、 20世紀の価値観、20世紀の技術、そして20世紀の権力闘争の延長線上をまだ走り続ける我々は、今までの常識に基づいて「よりよい」世の中を作るために日々大変な努力を迫られています。ところがその結果として社会が壊れ、環境が壊れ、自らの足元が流されていってしまうのです。すなわちもっと速く、もっとたくさん、もっと正確に、もっと便利に、もっと競争的に、と20世紀の常識をあまりも「大まじめに」 追求した結果が現在のような荒廃した社会と地球を作り出しているのです。何と皮肉なことだと思いませんか。

(4)「対症療法」の限界
こうした現実を目の前にしたとき、我々が進むべき道は2つあります。ひとつは20世紀型社会の枠組みを変えず、その「対症療法」を強化して決定的危機を回避するという方法であり、もうひとつは抜本的に社会の枠組みを作り変えて、危機そのものがない社会を創るという方法です。今までの我々は決定的な危機はまだ先にあるというあまり根拠のない安心感のもとに、今までの社会の枠組みを基本的に変えることなく、その対策、すなわち「対症療法」に大いに努力してきたと思います。貧困対策、公害対策、福祉政策、医療政策、高齢化対策、環境対策、平和運動など、今までに経験してきた数多くの対策・政策・運動は、想いははるかに高いところにあるとしても、 現実には20世紀型社会の枠組みを維持するための「対症療法」として機能してきたということを認めざるを得ません。しかしどうでしょう。政治が財政赤字を直接の原因として小さな政府を標榜し、福祉や医療のカット、弱者支援の切り捨てなど、社会矛盾に対するあらゆる「対症療法」から手を引こうとしている現在、そして社会の危機と環境の危機がいよいよ決定的になり始めている現在、我々はもうひとつの道を選択しなければなりません。それは抜本的に社会の枠組みを作り変えて、危機そのものがない社会を創るという方法です。たとえそれがどんなに大変なように見えても、我々が生き残るための道は、そこにしかありません。

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第2章 社会危機・環境危機がない社会とはどんな社会なのか

(1)無限の安定とは日々の充実のこと
無限の命というのは、日々完結している命と同じ意味であります。すなわち危機がなく、無限に安定が続いていく世の中というのは、昨日から引き継いだ問題に翻弄されることなく、翌日に問題を先送りすることなく、一日一日が無理なく無駄なく完結している世の中のことです。「対症療法」を頼りに無理をしたり曲がったことをすることがなく、力に任せて今日の勝ち負けにこだわるということがなく、昨日の悲しみに打ちひしがれることがなく、明日に不安や恨みを飛ばすことがなく、一日一日を最高に充実させ、そして最高に完結させて生きて行く世の中が、無限の安定をもつ世の中なのです。

(2)最後の勝ち組が見る光景
どうでしょう。今までのものすごく忙しかった20世紀の時代を駆け抜けてきて、さらにもっと速く走れと互いに叱咤激励しあっている今の日本の人々が、今、一番求めているのは何でしょうか。もっと速く走る力でしょうか。もっと多くのことを記憶する力でしょうか。あるいはもっと激しく戦える力でしょうか。たしかにそういう人も世の中にはまだいます。しかしよく見てください。そういう人が一時は勝ち組となってまだまだ20世紀的価値観のなかで勝てると自信を持っても、次の日には突然会社がリストラを始めたり、無理がたたって大病を患ったりして、あっという間に負け組に転落していってしまいます。今の我々は嫌というほどそういう姿を見せ付けられていませんか。また大なり小なり、みんなそういうことを体験しているのが今の時代 ではないでしょうか。今の時代の勝ち組・負け組の二極分化が最後に行き着いたとき、 そこに何が見えるのか。次第に多くの人が気づき始めています。それは、無数の敗者の恨みの上にひとりの勝者が立ち、そのひとりの勝者の足元ですら無数の敗者の恨み で突き崩され、最後には誰もいない荒野だけが広がっているという光景です。

(3)今、日本人は何を求めているのか
では、今、日本人は何を求めているのでしょうか。一言で要約すれば、「安心」ではないでしょうか。昨日の心配を引きずることなく、明日の心配をすることもなく、今日一日を腹の底から最高に晴れやかな気持ちで暮らしたいと思う気持ちではないでし ょうか。あまりにも激しく変化してきた20世紀が終わって、人々は改めて安定と平和を求め、その上に大いなる安心を感じて生きていきたい、それが今の日本人が心から求めて止まない価値観なのではないでしょうか。それと同時に人々は今までのこの辛かった平成の苦難の時代を、「忘れたい」と思っているように思います。戦争体験者が決して積極的に戦争体験を語ろうとしないのと同じように、人々は平成のこの辛い時代から早く抜け出したいと思うと同時に、これを「忘れたい」と思っているのではないでしょうか。それは、多くの人がこの辛い時代の被害者であると同時に、加害者にもなってしまっているからではないでしょうか。ですから今の日本は今までの恨み、 思いを一度全部水に流して、ゼロからやり直すチャンスを手にしつつあるのです。

(4)20世紀の日本は既に「成功」を達成し終わっている
一般にリーダーの最も大事な仕事のひとつは、その組織あるいは国にとって、「成功」 とは何かを具体的に定義することです。今の日本は20世紀とは違う成功の定義が必要です。かつて幕末の開港の時代から20世紀の終わりまで、日本の成功とはひとえに世界の列強と戦って勝つことだったといってよいと思います。あるときは戦争で勝ち負けを競い、あるときは貿易で勝ち負けを競い、またあるときは財産の量で勝ち負けを競い、今日まで活力を保って成長してきたのが日本の姿だったと思います。今の日本は確かに大分落ちぶれた感があって、世界からも見下げられているようではありますが、しかし日本の現実は明治以来日本が競ってきた欧米列強と比較すれば、特に経済力や人々の生活水準において決して遜色ないどころか、相当進んでいるところが少なくありません。まず何よりも世界トップ水準の貿易黒字国ですし、大分不況がひどいとっても、街中には山海の珍味がびっくりするほど安い価格であふれ、虫眼鏡を使わなければボタンを押せないような極めて小さな録音機が、何時間も人の話や音楽を録音し続けてくれます。こうした現実を見ると、まだまだ足りないところ、直すべ きところはたくさんありますが、「足るを知る」という大事な教訓を思い起こすとき、 今の日本は既に幕末の開港以来の国家の成功目標を、見事に達成していると判断すべきです。そうです。日本は既に20世紀までの国家の成功目標を見事に達成し終わっているのです。

(5)「成功」の定義が変わるとき
だからこそ、今の日本には新たな成功の定義が必要なのです。逆に言えば昭和が終わってから21世紀に入って、今に至るまでのたった15年間に、なぜ日本がかくもみすぼらしい姿になってしまったのか、なぜ日本の活力が失われてみんな朦朧(もうろう) として暮らすようになってしまったのか。その答えは平成に入ってから今まで、日本が成功の定義を持てなかったからです。すなわち平成に入ってからの日本というのは何が成功かがよくわからないままにとにかく力任せに走り続け、その結果くたびれ果て、人も国も漂流して座礁しかかっているということなのです。そうです。今の日本に必要なこと、それは「成功」の定義を変えることです。いや、新しい日本の「成功」を定義すること、と言ったほうが正確かもしれません。新生日本は新しい日本の「成功」を定義するところから始まります。私は新生日本の成功の定義を、『グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生』社会の建設 ―違いが強さになる国創り―、と名づけ、これから10年を『グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生』社会のインフラ(社会基盤)作りの10年としたいのです。

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第3章 ロハスな生き方

(1) ロハスという言葉を知っていますか
ところでみなさんは、ロハス(LOHAS)という言葉を知っていますか。ロハスとは米国の社会学者ポール・レイ氏と心理学者シェリー・アンダーソン氏が提唱した Lifestyles Of Health And Sustainability の頭文字をつないだ造語で、「健康や持続可能性を重視するライフスタイル」を意味しており、よりわかりやすく、心と体、地球に優しいライフスタイルとも呼ばれたりしています。それは人々の意識改革を促して、健康と地球環境を大切にしながら様々な側面でライフスタイルを変えていこうという動きで、具体的には食品分野では有機・無農薬栽培、自然食品、安心して使えるサプリメント、伝統製法、自然農法、スローフードなどに焦点を当て、また健康や自己開発ではオーガニックな原料を使った化粧品、自然治療、鍼灸、統合医療、ホメオ パシー(同種医療)、ヨガ、フィットネス、ヒーリング、アロマ、精神性向上セミナー、 スローライフなどを指します。さらに建築・交通分野では建物再生(リノベーション)、 環境に優しい家やインテリア、グリーンな都市計画、グリーンな交通手段などが注目され、エネルギー分野では代替エネルギー、再生エネルギー、省エネルギー、エコドライブ、リサイクルなどが含まれます。そしてそれ以外にもガーデニング、エコーツーリズム、新しい学校、景観の復元、社会的責任投資など、非常に広い分野でロハスの考え方と実践が浸透しつつあります(ロハスについてもっと詳しく知りたい方は、https://www.google.co.jp/等の検索エンジンに「ロハス」と入力して検索してください。関係するサイトが無数に出てきます。ロハスを主題にした雑誌もありますし、本や映画 や音楽も出ています。雑誌、本、映画、音楽についてはインターネット書店のひとつ、https://www.amazon.co.jp/などで「ロハス」というキーワードで検索してみてください。きっと今までロハスという言葉を知らなかった人も、実は自分もロハスな生き方をして いる仲間の一員なのだということにすぐに気づくと思います)。

(2)子供が大人になったことを実感する時とは
ロハスは欧米でも日本でも非常に大きな速度で世の中に浸透しつつある考え方であり、それが人々のライフスタイルを次第に大きく変え始めています。各業界や分野ごとに見れば単なるひとつの流行のように見えながら、ロハスはすべての分野を横断してどんどん内容が進化しているのが特徴で、ひとつづつの商品や流行を見ているとそれだけにしか見えないものが、すべてを横断的に見ると、そこにはひとつの新しい価値観が、人々のライフスタイルの変化を通じて、多くの日本人の間に定着しつつあることがわかってきます。それはちょうど右も左もわからない子供が成長して分別ある大人になっていくときの姿と同じです。我々は子供の話し方や行動や服装や時間の過ごし方が次第に変わっていく様子を実際に目で見ることで始めて、子供が大人になっていくのだなと実感するわけです。すなわち子供と大人の境目というのは名目的には年齢や容姿の変化で判断されますが、我々がそれを実感するのは実際の行動があらゆる場面で子供の行動から大人の行動に変わったときです。

(3)ロハスとは「総合的」なライフスタイルの変化
まさにロハスで人々が変わり始めているというのも、同じような状況なのです。すなわち個々の分野での変化を個々に見れば単にそれだけの変化であり、新たな流行かもしれません。また健康を大切にするとか、持続可能性という言葉も昔から使われている言葉かもしれません。さらにロハスのなかで取り上げられる商品やサービスも、 その多くは昔からあるものかもしれません。では何がロハスで変わりつつあるのかというと、次第に多くの人々がその人のライフスタイル全体をロハスの考え方に沿ったものに「総合的」に変えつつあるということなのです。すなわちどのようにロハスが世の中に浸透しつつあるかを見ると、個々の分野が流行にしたがってつまみ食いされていくというのではなくて、ある種の価値観、考え方を持った人が、「総合的」にライフスタイルのあらゆる側面で行動を変えていくという姿なのです。それはまるで子供が大人になるときに生活のあらゆる側面で行動が変わっていくときとまったく同じ状況で、実は今の日本では人が子供から大人に変わるときのような非常に大きな変化が、 水面下で静かに進行しているのです。それはロハスという言葉に連なる動きを見ているとよくわかるのです。実は日本人は既に目に見えないところで、大きく変わり始めているのです。20世紀型人間から21世紀型人間に、日本人は今、進化を遂げている真っ最中なのです。

(4)21世紀型日本人の予感
ロハスというのは非常に広い範囲のライフスタイルを「総合的」に表す言葉ですから、IT革命などという言葉と同じように、時代の変化と共に内容もさらに進化していくと思います。基本は健康と持続可能性ということですから、それは我々の生活のあらゆるところに応用ができることなのです。ということは我々日本人はこれからどのような姿になるのでしょうか。21世紀型人間が今、ロハスを通じて生まれつつあるとして、その行き着く先に見える日本人というのは一体何を求め、何を大事にし、 何を「成功」の定義として生きていく日本人なのでしょうか。大きな時代の変化というのはまず第一に、回り舞台が回るような要領で起きるものです。すなわち今までの時代が完全に終わる前に、次の時代の舞台や役者が裏側で用意されていて、表の舞台と役者の役が終わると同時に裏が表に変わるのです。すなわち大きな時代の変化の予兆、準備は必ず今の時代のなかにあります。ですから今の時代をよく気をつけて見ていくと、そこに次の時代の舞台と役者の姿が見えてきます。第二に大きな時代の変化というのは、ちょうど富士山を上るときと同じように、まったく違う場所からそれぞれ登山道を登り始めても、最後は同じ頂上に到達するようになっているということで す。すなわち今まで全く関係がなく、相互に独立して動いていた人たちが、最後にみな同じ場所で顔をあわせるようにして次の時代の役者が揃っていくということです。 そう考えると今のこのロハスの動きの延長線上に、―ただしロハスに限ってということではありませんが―、21世紀の日本があり、ロハスを通じて無数の21世紀の役者が次の舞台に上りつつあると考えてよいのではないかと思うのです。では一体彼ら・彼女らは何を求め、何を大事にし、何を「成功」の定義として生きていこうとしているのでしょうか。

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第4章 「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会の特徴

(1)共生を願う気持ち
わたしはそれをひと言で言えば、「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」ということだろうと思うのです。すなわち21世紀の日本人の成功とは「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」をどこまで達成できるかということではないかと思うのです。ここで共生という言葉は英語のコラボレーションを訳した言葉で、よくチームワークという言葉と並べて使われます。一般にチームワークというのは組織の内部で協調していくことであり、コラボレーションというのは組織を超えて協調していくことです。ですから一般に共生というときには、隣人、隣の町、隣の会社、隣の国、 次の世代、前の世代、自分の外側に広がる自然、自分より年上の人、年下の人など、 自分から見てあらゆる外部の人や組織と一緒に協調していくということを意味します。平成の大変辛い時代を土台にして、その上にロハスな生き方をとおして未来を拓こうとしている人々の思いを乗せたとき、私が感じるのは、人々はあらゆるものと共生したいと思っているということではないかと思うのです。すなわち20世紀までの時代はあまりにも自分と外部を峻別し、同時に家庭でも企業でも地域でも国でも、共同体という共同体がどんどん壊され、人はどんどん孤独になっていきました。しかも孤独な個人同士が互いに戦いあうことが奨励されているのが今の時代であり、その戦いが地球に与えるストレスで、そもそもの生きる基盤さえ失われかねないというのが今の 我々の状況です。

(2)あらゆる生命との共生
極端まで振れた振り子は必ず元に戻ってきます。日本人は今改めて、20世紀までの怨念を一度全部水に流して、すべての人、すべての民族、すべての国家、すべての自然、すべての地球、過去に生きていたすべての人とこれから自分が死んだ後も生きていくすべての人、そしてあらゆる動物や植物など、あらゆる生命と、種と空間と時間を超えて協調して生きていきたい、それが自分にとって一番気持ちがよいことだし、 健康なことだし、持続可能な地球を守る上にも良いことだ、と、本気で確信し始めているのではないでしょうか。すなわち今、人々が求めている共生というのは単に隣近所と争いをしないというような狭いものではなくて、他の国や民族はもとより、地球上の植物、動物など、ありとあらゆる生命と共生するということであり、またリサイクル、リノベーション、伝統の重視というのは過去に生きていた人たちと共生するということであり、持続可能な地球環境を残していくということは、これから生まれてくる人たちと共生するということを意味しています。まさに種と空間と時間を越えて、 人はあらゆる生命を共生することを求め始めているのではないでしょうか。こういう共生というものがわたしが言う「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」というものなのです。

(3)死生観の変化
そしてこうしたロハスから見える人々の価値観の変化のなかでもっとも特徴的だと思われるのが、死生観の変化です。昔から日本では死後の世界や輪廻転生を信じる人が多いと言われていますが、20世紀の近代化の時代にはそういう伝統的、宗教的な考え方が衰退し、生きている間がすべてという現世的・刹那的な死生観が日本でも一般的になっていったと思います。ですから人の生き方も生まれてから死ぬまでの間だけが問題だということで、伝統や歴史が軽視され、また未来に対する無責任な行動が増えていったように思います。生まれた瞬間からすべてが始まって、死んだ瞬間にすべてが終わるという考え方であれば、人が限りなく独善的で、我がままかつ無責任に行動していくのを止めることは非常に難しくなります。唯一、恐怖によってのみ人の行動を抑えることができるという状況になれば世は乱れ、社会そのものが崩壊していきます。しかしロハスな生き方をしている人たちというのは決してひとつの宗教を信じているわけでなく、ごく自然に独善的・現世的・刹那的な死生観から離れて、種と空間と時間を越えた他の生命を感じ、それと共生していく楽しさ、喜びを体で感じ取 っているように見えるのです。多くの臨死体験が精神性向上セミナーの話題に取り上 げられ、植物の成長や動物の生態を自ら間近に観察し、近代医学を使わずに難病が完治する様子が次々に紹介され、精神的に落ち込んでいた人がロハスの世界に接して心が癒されていく姿がいくつも目撃され、人々は次第に近代的な死生観を離れて、伝統的な死生観、すなわち死後の世界や輪廻転生に対して違和感を持たない死生観に、回帰していっているように見えるのです。

(4)理性の相対化
同時に非常に特徴的なことは、人々が次第に「なぜ」という言葉を使わなくなりつつあるということです。一般に科学では再現性、論理性が重視され、目に見える証拠を積み上げた上で結論を出すことが一般的です。しかし今の日本では世界一の製造業大国といわれながらも人々の科学に対する関心が次第に希薄になっていき、反対に科学に対する不信感すら広がりつつあります。しかもおもしろいことにそれは決して科学から逃避するとか科学を知らなくて恐れるということではなくて、むしろ科学の最先端にいる人たち、すなわち優れた医者、物理学者、経済学者、農学者などの科学で飯を食っている人たちが、自ら科学の限界に直面し、科学の枠組みを超越する必要性を極めて真摯に、そして熱心に説いているのを聞き、そこに自分の体験や直感を重ね合わせて感じていることだということです。すなわち、科学の最先端にいる人たちが、もはや理性だけでは物事を理解しつくせない、「なぜ」という問いに答えられない問題が世の中にはあまりにも多すぎて、科学の力だけでは決して世の中全体を説明しつくせない、ということを本音で語り始めたことが、日本では人々が理性を相対化させていく非常に大きな原動力になっているように思います。近代的死生観から伝統的死生観への回帰も、基本的には理性の相対化によって起きている現象です。

(5)信じることより感じること
したがってロハスな生き方をしている人が外の人に自分の思いを伝える手法は、決して科学的かつ理性的に説明しつくして相手を納得させるという手法ではなくて、とにかく自分で感じて欲しい、良いか悪いかは自分で感じて判断して欲しい、自分はその最初のステップとして紹介をするから、というやり方が一般的ではないかと思います。理論や利害打算に基づいて特定の考え方を信じて自分や相手を納得させるというのではなく、良いか悪いかを自然に感じる自分の感性に基づいて、取捨選択をしていくというのが、一般的な人々の行動様式になりつつあるのではないでしょうか。もちろんそうは言ってもオーガニックの品質表示とか、サプリメントの効能など、虚偽や誇張が入りやすいものには人々は極めて理性的かつ慎重に対処していますが、それはあくまでもロハスな製品であるかそうでないかの判断を行っているということであって、同じようにロハスで高品質な製品があったとき、人々は躊躇することなく自分の感性、好き嫌いの気持ちの振れ方をもとに取捨選択を行っているように見えます。信じることよりも感じることを大切にする。そこには20世紀の時代にはあまり「推奨」されなかった人々の行動原理がうかがえると同時に、共生というのも基本的には共生していると本人自身が自分の感性で感じられることが、最も大切になってくるということなのです。

(6)楽しむことの大切さ
そして何よりもロハスな生き方をしている人の特徴は、どんなことであれ、楽しむことを非常に大事にしているということです。近年、スポーツの世界でもビジネスの世界でも、限りなく熾烈な競争に勝つためには、単に人々を競争させて淘汰させて残った人を選ぶというやり方では、うまくいかないということが体験的に明確にわかりつつあります。すなわち激しい競争の極致では、普通の人がどんなに訓練しても決して超えることができない高い水準の業績でなければ、決して競争には勝てないという現実が生まれつつあります。そうしたとき、どうすればその競争に勝てるのかというと、あまたの人の中から、初めからその分野に非常に優れた才能を持った人を選んで、 その人に合わせた訓練を施し、しかもどんなに大変な訓練でも楽しく訓練できるように知恵を絞るというやり方です。本当においしい野菜や果物がえもいわれない甘さを持っているのと同じように、最高の業績というのは、はつらつとした楽しい環境のなかで、適切な刺激を与えることをとおして、その人の持つ潜在能力を最大限開花させることによって達成させられます。上から押し付ける訓練、型にはめるだけの訓練というものは楽しさが感じられないために往々にして人々の気持ちが萎縮し、潜在能力の開花もあまり見られなくなります。人はどういうときに楽しいと感じるか、人はどういうときに心の底からうれしい、よかったと感じるのか。それは自分の世界が広がった、あるいは自分の新たな潜在能力が開花したと実感できたときであり、その成功 体験は人を次なる成功へと導く強力な原動力となっていきます。

(7)潜在能力の開花
これまた非常に興味深いことに、20世紀の最後に見た極端な競争社会で最後に勝つ方法というのは、決して限りなく厳しい訓練をするという方法ではなくて、むしろ本人が楽しいと思う環境を整え、適切な刺激を与え、潜在能力を最大限開花させるという方法なのです。ということは人はそれぞれ互いに異なった分野で本来生かすべき潜在能力を持っているはずです。ですから21世紀の教育というのは、人に若いうちから様々な分野で試行錯誤を経験させ、どんな分野で潜在能力が開花しそうか注意深く判断し、方向性が見えたら適切な刺激を与え、楽しいという気持ちが壊れないように成功体験を積ませ、その結果として本人が持つ潜在能力を最大限に開花させていくというやり方が一般的になると思います。それは明らかに20世紀の大量生産方式の教育とは違うやり方で、20世紀と21世紀で最も姿が違ってくる部分のひとつが教育ではないかと思います。

(8)ロハスがなぜ楽しいのか
ロハスな生き方をしている人を見ると、自分が得意な分野、自分が好きな分野、自分が楽しめる分野をみなそれぞれ持っていて、その分野でどんどん専門知識を高め、 経験を積み、ライフスタイルを進化させていっています。ロハスな生き方の対象になる分野は無限に広がっており、決して他人と成功を競う必要はなく、ひとりひとりが ロハスな生き方の成功を体験することができます。すなわちロハスな生き方というのは、その具体的な姿がひとりひとり異なるので、成功というのは他人と比べることではなくて、自分が成功だと感じられるかどうかだということなのです。しかし同時にロハスな生き方は個々に千差万別であると同時に、互いに情報を交換し、互いに助け合い、互いに成功を語り合い、一緒に共同作業を行うことで、非常に大きな相乗効果 (シナジー効果)を創り出すことができます。すなわちロハスな生き方にはこれまで述べてきたような価値観の特徴があります。人は同じ価値観を共有できる相手とはすぐに親しくなれるものですし、価値観を共有する人が共同して一つの目標を目指すと、1足す1が3になるような相乗効果を得ることができます。この相乗効果の部分というのがまさに他の人と共生することによってお互いの潜在能力が開花した結果であり、人は自分ひとりでロハスな生活を楽しむだけではなくて、他の人と共生することで相乗効果が働いて、より大きな成功と楽しさを得ることができるのです。まさにロハスの原点である共生というものがいかに楽しいかということを、比較的容易に感じ取る ことができるのも、ロハスな生活の特徴です。

(9)ロハスに生きると人は誇りが持てる
さらに、ロハスな生き方をしている人はなぜ穏やかで、共生を自然に求めるような明るい気持ちを持つことができるのでしょうか。その理由はもちろんヨガなり有機野菜なり、そもそもの品質がもたらす良い効果が大いに影響していると考えられますが、 同時にみんな自分なりのロハスな生活を自分の意思によって選択し、確立させていったときに、その人の個性、才能がふんだんに発揮されて、他の人とは違うライフスタイルになっているのを人が見て、誉めてくれるということが大いに寄与しているのではないかと思うのです。ロハスな生活では小さな花が大きな花に負けるということはありません。値段の安いものが高いものにばかにされるということもありません。み んなそれぞれ、健康と持続可能性という条件を満たしながら、自分固有の才能を開花させながら楽しく生きていることそのものが、人から評価され、誉められる対象になるのです。すなわちロハスな生き方は選択肢が無限にあるので、どんな選択肢でも自分の選んだ道を楽しく歩いている人はみな元気であり、人から自然に誉められるのです。だから、ロハスな生き方をしている人は誇りが持てるのです。すなわち、人と違 ったことをやっていても、いや、人と違ったことをやっているからこそ、誉められるのです。人と違ったことをやっていても、いや、人と違ったことをやっているからこそ、誇りが持てるのです。

(10)違いが大切
したがってここで、ロハスな生き方の非常に大きな特徴であり、その延長線上にある「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会の非常に重要な特徴が浮かび上がってきます。それは、違いが強さになるということです。今までの20世紀の価値観では人と違うということは決して良い評価ではありませんでした。工場の品質管理を見るまでもなく、他と違うものは異質なものとして排除されるのが原則であり、 価値観でも行動でも、集団として均一であることが強さの原点であると言われてきました。確かに20世紀の時代というのは仕事の上でも生活の上でも人々の目標というのが非常に狭い範囲に集中していて、少ない椅子を誰が手に入れるか、序列があたり前のピラミッドを誰が一番上まで上るか、そういうことに多くの人々の関心が集まっていたのではないかと思うのです。すなわち20世紀の価値観では、違いは弱さを意味していたと思うのです。しかし上述のように「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会のなかでは、違いというものはそもそも他と自分を区別する重要なポイントであり、自分の思い、意思、自分の特徴の表現そのものになります。そしてお互いに違うからこそ、決して奪い合うことなく安心して共生することができるのであり、同時にお互いの違いを生かして共生することでそれぞれの潜在能力が開花して、 より大きな楽しみが得られるのです。

(11)違いが強さになる
進化論のなかでも進化に残るのは決して強い種ではなくて、変化適応力が高い種だと言われていますが、社会全体としてみたときに、互いに違う人たちが環境に応じて自由自在にそれぞれの場所で花を咲かせ、それぞれの環境のなかで互いに共生して潜在能力を開花させていくことが、ひとつの生態系としての社会に安定性をもたらすのではないかと思うのです。社会全体がひとつの目標に向けて無駄なく組織化され、堅く秩序づけられているということは、確かに今日の仕事と生活には好都合で効率的かもしれませんが、明日、何らかの事情で世の中の環境が変わったときには、衰退と危機の大きな原因になります。人が無限の安心を求めるのであれば、社会は毎日が完結していなければなりません。それは互いに違う人たちがそれぞれの環境に合わせて行動し、共生することによって、初めて達成されるのではないでしょうか。すなわち、 本来、互いに違うということは、弱さではなくて強さであるはずなのです。同時に、 互いに違う人が価値観を共有して共生することで相乗効果が生まれ、それが人々の潜在能力を引き出し、社会全体のレベルが上がって、ますます社会全体が強くなっていくのです。歴史と伝統を学び、熟練の技を古老から教えてもらうということは過去と自分との共生による相乗効果を生み出し、ゴミをリサイクルし、自然の生態系を守るということは、未来と自分の共生による相乗効果を生み出すということになります。 「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会では、違うからこそ強いのです。 そして、違うからこそ、誇りが持てるのです。

(12)善悪という価値観の復権
さらにロハスな生活においては、善悪という価値観が明確に尊重されています。ロハスの言葉の定義から言っても健康で持続可能であるということを善として最初からうたっていますから、人はあまり迷うことなく善悪の価値観を持つことができるようです。一般に20世紀の常識ではあらゆる価値観、善悪の基準が相対化され、仕事や生活において善悪という価値観はあまり尊重されなくなっていきました。裁判に勝ちさえすればそれが正義であり、善になるという風潮が蔓延したことで人は何をすべきであり、何をすべきでないか、それを自信を持って判断する基準を失ってしまったと思います。しかし、実際に世の中を少し遠目に見ていると、やはり善なる行い、善なる考えと、悪なる行い、悪なる考えは多少のグレーゾーン(中間領域)を挟んで、厳然として存在していると思います。目に見えないほど小さい字で契約書を書いて、あとから契約違反だと言ってみたり、消費者にわからない言葉を使って本来消費者が望まない成分を混ぜたりといったようなことは、仮に法律的には違法性を問えなくても著しく相手の心証を害するものであり、二度と付き合わないという形で、ロハスな生活からは自然に排除されていきます。ロハスな生活というのは基本的には相手を信用する、性善説というもので成り立っています。ですから相手を裏切ったら二度とその場に戻ってくることができない、悪いことをしたらロハスなネットワークからは追放されてしまうという形で制裁が行われています。そのため人は自然に互いに信用できる相手を探すようになり、交渉や法律よりも信用で共生を成り立たせるという姿に落ち着いていきます。そしてその信用の土台にあるのは厳然とした善悪という価値観であり、善なるものを求めて止まない人々の気持ちです。

(13)無限に広がる産業の裾野
またロハスな生活を、それを支える商品を供給する産業という観点から見ると、その裾野は無限に広がっているのが特徴です。何度も述べるようにロハスな生活というのは健康で持続可能な生活ということですから、その応用範囲は無限にあり、あらゆる産業がロハスの分野で活躍できる可能性を秘めています。要するに健康で持続可能であるということを善だと認め、善に徹してロハスな生活を求める人たちと共生しようという意思と実力がある人であれば、誰でもロハスな人々とネットワークを持つことができます。ロハスな人々が求めるものは本物であり、良いものであり、また違いがわかる個性が見えるものです。決して安いばかりのものではないし、逆に高いばかりのものでもないし、有名ばかりなものでもないし、大量に売れているばかりなものでもありません。最後は好き嫌い、フィーリングが大事になってきますから、個性が尊重され、また個性によって付き合うお客さんが決まってくるという世界です。ですからロハスな世界になじむのはどちらかといえば中小零細企業、あるいは個人でやっ ている企業であり、さらに営利を目的としないNPOや任意の団体でも立派に活動ができる場所です。ということはロハスな生活を支える産業構造、その延長線上にある「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会の産業構造というのは、あらゆる分野にわたって、内外無差別に、極めて個性的で優れた品質を持つ会社が網の目のようなネットワークのなかで活動していくという姿に落ち着くだろうと思うのです。 この世界でひとつのブランドが他を制するということはありえないでしょうし、単に多額の資本金を持ってきても決して市場を席巻することはできないでしょう。常に足りないのはユニークなアイデアであり、熟練した職人であり、個性的で経験豊富な人材である、という姿だろうと思います。

(14)書き換えられる経済学
そしてもうひとつ大きく変わるのが、現代の経済学だと思います。経済学の歴史を紐解けば、今のような非常に視野が狭くて効率一辺倒の経済学ではないものもあるとは思いますが、残念ながら今多くの人が接する経済学とは、自由競争と効率性を基礎にした経済学か、既に崩壊した社会主義や巨大な赤字だらけの政府の政策を解く経済学のどちらかだろうと思います。なぜ20世紀の世の中が行き詰ったのか、その最大の原因は20世紀の経済が行き詰ったからであり、もう少し突き詰めれば20世紀の経済学が不完全だったから、あるいは20世紀の経済学がその先の21世紀に向けて進化できなかったからだと言っても、過言ではないと思います。一体20世紀の経済学の何がまちがっているのか。わたしは20世紀の経済学の最大のまちがいは、あまりにも経済というものを小さな範囲で考えてしまったところにあると思います。わたしは21世紀の経済学というのは、20世紀の経済学に自然の恵み(自然からの贈与)という考え方と、善悪という価値観を加えたものになるだろうと思うのです。

(15)価値はどうやって生まれるのか
そもそも20世紀の経済学では価値というものは労働によって生まれるとあります。 しかし、本当でしょうか。ロハスな生き方をしているとよくわかりますが、価値というものはまずその圧倒的な部分が自然からの一方的な贈与によって生まれてくるものであり、その自然の恵みに人が十分に手をかけることで、最高の価値になると考えられます。農作物が育つときの様子を見てもよくわかります。そもそも植物を作り育てるのは自然です。人はどんなに利口になっても菜の葉一枚作ることはできません。畑に芽を出す植物というのは、自然が我々に一方的に贈与してくれるものなのです。しかし同時に自然に生える植物をそのまま放置しておいても、決しておいしい農作物を収穫することはできません。人が丹精込めて手をかけて初めて、すばらしい農作物として収穫することができるのです。工場で工業製品を作ることも同じです。工業製品を作る機械、道具があって、マニュアルに従ってそれらを動かしさえすれば、確かに製品ができるように見えます。しかし工業製品の本当の付加価値というのは、いかに丹精込めて製造設備を改善し、いかに緻密に整備し、いかに上手に道具や機械を動かすかによって決まるのです。機械と道具とマニュアルを並べればすばらしい製品ができるということは全くありません。工場にいかに人が丹精込めて手をかけるかで工業製品の最終的な品質と価値が決まるのです。さらに人の教育でも同じです。人は自然の力によって成長していくことができます。しかしなぜ人は古来教育というものに熱 心であり続けたのかといえば、自然に育っていく人を、人が丹精込めて教え導くことで、よりすばらしい人に成長していくからです。こうして我々は日常の仕事や生活のなかで、あらゆるものの価値というのは自然が我々に与えてくれる一方的な贈与の上に、我々が丹精込めて手をかけることで得られるものだということを、知ることができるのです。

(16)利害打算から善悪へ

さらにロハスな生き方のなかには善悪という価値観が明確に出てきます。今の経済学では善悪という価値観は明示的に取り上げられることがなく、すべては損か得か、 損得の利害打算によって人々が行動していくと仮定しています。人は、自分の効用といって、明確に数値化できると仮定されている自分の欲望を、予算制約の範囲内で常に最大限に保つことがすばらしいことだと説かれていて、足るを知るということがありません。あるいは企業は単にさまざまな資源を寄せ集めて並べておくだけの倉庫のような場所であるようで、そこには自分の損得しか考えない限りなく強欲な経営者が居座り、工場設備でも人員でもできるだけコストと時間をかけずに大胆に減らしたり 増やしたりできることが競争力であると言われたりします。しかし、それは本当でしょうか。逆に言えばこうした善悪を無視した利害打算だけの経済学が蔓延したために、 20世紀の社会は崩壊に向かわざるを得なくなったのではないでしょうか。なぜ世の中で改革という名のもとに破壊だけが広がっていくのか。それはまだかろうじて残っていた善悪という価値観を排除して、世の中のあらゆることを損得の利害打算だけで判断しようとしたからではないではないでしょうか。ロハスな生き方、そしてその延長線上にある「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会においては、利害打算ではなくて善悪という価値観がまず初めに人々が経済行動を行ううえでの制約条件になります。さらに「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会においては社会の安定化と共に、互いに長い付き合いをするネットワークというものが世の中の基本的な構造になっていきます。ということは損得の計算も現時点での単一の取引だけで判断できるものではなく、過去・現在・未来をとおして行われるべきものになります。ということは、最終的に「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会における損得というのは、互いに生き続け、共生できるためのコストの交換というところに落ち着くのではないでしょうか。

(17)なぜ社会主義経済学は破綻したのか
では同時に、なぜ20世紀の社会主義経済学は破綻したのでしょうか。すなわち失業と飢えを社会から撲滅し、階級をなくし、資本主義を越え、ユートピアにより近づくべき社会体制であるはずの社会主義、共産主義を支えた経済学が、なぜ破綻したのでしょうか。それは基本的には自由競争と競争を重視する経済学と同じところに問題があったからではないかと思います。すなわち価値の根源を人の労働のみに帰着させ、 人の行動は利害打算によって行われるという前提が同じように社会主義経済学でも踏襲されています。しかも社会主義、共産主義の国では政治体制が独裁的で抑圧的であ ることが多く、人の創意工夫が阻害され、体制の至るところで腐敗が増大していったことも、体制の崩壊を早めたと思います。時間で測られる労働が価値の唯一の源泉であるということから本人の強みや嗜好、本人の個性に合わせた就職や教育が行き届かず、いたずらに労働時間を稼ぐことのみで経済が回っていたことが、競争力の長期的かつ著しい低下を招いたのだと思います。さらに政治体制のなかに建前の善悪と現実の善悪が甚だしく異なる部分が生まれてきて、それが国民に大いなる虚偽と不信をもたらし、社会主義や共産主義の理念に基づく経済活動を内部から崩壊させていったのだと思います。同じように総需要を政府が賢く管理しながら経済を運営していくという、いわゆるケインズ経済学においても、基本的には価値の源泉について自然の恵みを考えていませんので、社会主義や共産主義ほどではなくても経済活動において人の潜在能力を最大限に発揮するということを保証するのは非常に難しいですし、社会主義や共産主義の政府と同じように政治や官僚組織、あるいは企業の内部に善悪の基準の揺らぎと腐敗が生まれ、体制の弱体化が国家規模で発生し、それが結果として巨額の財政赤字を生み出したのだと思います。こうして考えてくると今の我々にとって、 20世紀の経済学は資本主義的な経済学も社会主義的な経済学も、あるいはケインズ経済学においても、その何れもが共通の問題点を抱え、また政治体制との整合性において腐敗の問題を解決できないということで、立ち往生してしまっていると言えるのではないでしょうか。

(18)経済学ではなくて経営学
では、21世紀の経済学というのは具体的にどんな姿になっていくのでしょうか。 20世紀の経済学に自然の恵み(自然からの贈与)という考え方と、善悪という価値観を加えたものというのは、一体どんな経済学なのでしょうか。わたしは21世紀には経済学ではなくて、経営学が本格的に花開いていくのではないかと思うのです。したがって21世紀の経済学というのは、21世紀の経営学と名前を変えるべきであり、 それは20世紀の経済学に自然の恵み(自然からの贈与)という考え方と、善悪という価値観を加えたものになっているのではないかと思うのです。そもそも経済活動というのは価値を生む人とそれを消費する人の間で起きる相互の活動のことです。そしてロハスというのは価値を消費する人の新しい生き方論ですから、当然これからの時代には、価値を生む人の側にも新しい生き方論がなければならないのです。それが21世紀の新しい経営学であり、「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会の経営学なのです。基本的に経営というのは価値を生むことであり、企業とはその価値を生む場のことであって、企業は常に世の中が良き方向に進化生成発展していくために新商品を作り、世の中に送り出していかなければなりません。経営学というのはその企業行動の原則と方法論を定め、世の中の進化生成発展がよりすばらしいものになるように、企業に指針を与えるものです。企業というのは単に製品を作って世の中に送り出すだけではなくて、人を雇い、人を教え育て、顧客、地域、そして取引先と末永く共生していくべき存在です。ですから経営学というのも本当はものすごく範囲が広くなければ完結しない学問であり、21世紀の経営学というのは、21世紀の社会科学そのものだと言ってしまっても過言ではないと思います。

 (19)21世紀の経営学
ではその21世紀の経営学、「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会の経営学に特徴的なこととは何なのでしょうか。特に今の時代の経営学と比べて特徴的な部分はどこなのでしょうか。そのまず第一はリーダーシップです。20世紀のタテ型リーダーシップに代わってヨコ型リーダーシップがこれからの時代のリーダーシップの基本です。ロハスな社会、「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会というのは基本的に誰もが対等な社会です。すなわちピラミッド状の上下関係に縛られたり、権力と服従による支配関係をもとに仕事をする時代ではありません。そのため20世紀のタテ型リーダーシップのように命令して報告させればすべてが動くというようなことはありえません。21世紀のリーダーシップはみんなが対等な立場で同じ目的に向かって横にネットワークを組めるように働きかけるべきものであり、それは社外とのコラボレーションのみならず、社内でのチームワークでもまったく同じ構造になります。すなわち「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会では働く人たちは、まだ未熟な見習いを除いてみんながそれぞれ自立した職業人であり、プロフェッショナルです。ですから経営者が特権的な立場で社員をその意思に反して動か すということはできません。みんながそれぞれ自分で判断して会社の仕事に、あるいは会社を超えたプロジェクトに参加していくという姿です。そのヨコ型リーダーシッ プの具体的な仕組みについてはわたしの既著その他に詳しく説明してありますのでここでは触れませんが(『大逆転のリーダーシップ理論』藤原直哉著・三五館・平成13年:完売・販売終了/『実践リーダーシップ学―世界が求めるビジネスリーダーとは』アフサネ・ナ ハバンディ著・藤原直哉監訳・万来舎・平成16年/『隠れた人材価値―高業績を続ける組織の秘密』チャールズ・オブライリー他著・広田里子他訳・翔泳社・平成14年、など)、それは表面的には米国で体系化されたリーダーシップの方法論となっていますが、そのエッセンスはかつて80年代の日本の成功を見て体系化されたものであり、 そのため日本人にとって決して異質なものではなく、むしろ昔から日本で大切にされてきた価値観に基づいたリーダーシップだというべきであり、その上、非常に奥が深く、極めて高度に発展できる可能性を秘めたリーダーシップです。ロハスな社会、「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会を実際に運営するには、どうしてもこのヨコ型リーダーシップが経営の中に定着しないと、うまくいかないのです。

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(20)御用達経営の時代
さらに「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会における経営の基本は、 御用達(ごようたし)という言葉に尽きると思います。そもそも今の時代のように、 何でも選ぶ自由があるということは、表面的には消費者にとって好ましいことのように言われますが、実際には賢い選択をすることが消費者の使命であるということでもあり、本質的には商品について素人である消費者が、限られた情報と知識に基づいて、 しかも短時間で賢い選択をすることは、決して容易ではありません。むしろ多くの消 費者は自分のニーズ、好み、予算などの制約条件などをすべて総合的に勘案した上で、 賢い選択を誰か信頼のおける人に頼みたいと思っているのではないでしょうか。たとえば家を買うというようなことは典型的であり、素人である一般消費者が自信を持ってすべてを理解した上で買うということは決して容易なことではありません。さらに自分の健康を維持増進するために具体的にどんな健康法を採用し、どんな食事を採れば良いか、それを最も賢く選択するというようなことは、普通、素人にはできることではありません。よく考えてみると、本来、モノやサービスの売り買いというのは、 表面的にはモノやサービスとお金の等価交換でしかありませんが、実際には買い手が持つニーズ、買い手が充足しなければならない用事に対して、売り手がその解決手段を提供するということです。一番大切なことは商品の売買ではなくて価値の提供であ り、それはもっと突き詰めれば売り手が買い手の用を足すということです。健康と持続可能性を価値観の根本に据えたロハス、そしてその延長線上にある「グレイト・コ ラボレーション = 偉大なる共生」社会においては、20世紀の経済よりもはるかに買い手のニーズが多様化かつ専門化し、買い手にとっては購買活動が事実上の学習活動にもなっているのです。だからこそ、売り手は買い手にとって最適の商品を「あつらえ」て買い手の用を足す、すなわち御用達を行うことが必要になってくるのです。

(21)選ぶことから「あつらえ」ることへ
御用達経営というのは、売り手が買い手の用を足すということを考えてさまざまな商品を選び、「あつらえ」、提供する経営のことであり、単に商品と価格を仲立ちにして、売り手と買い手がゲームのごとき感覚で対峙して損得を競うという伝統的な売買のスタイルを、もっと本質まで深めた形態の経営のことを指します。同時にここで売り手はもしその人が買い手から幅広く信頼され、また幅広い分野で実力を持っていれば、いくつもの商品、分野で買い手と御用達の関係で結ばれるようになり、売り手はより幅広く仕事を行っていくことができるようになります。そして最終的には選ぶというよりも買い手にとって最適の商品を「あつらえ」るというところへと経営が進化していきます。「あつらえ」るということはその人のためだけの商品を用意するということであり、それは文字どおり初めからその人のためだけに注文生産をするということだけでなく、その人のために特別な組み合わせをしたり、特別な配慮をしたりということすべてを指します。そして世の中全体が無数の御用達経営のネットワークで結ばれて、ありとあらゆる商品が「あつらえ」るというやり方で用意され、取引されるようになったとき、社会の全体の経済は御用達経済の時代と言うべき時代を迎え、最高に個性的で、すべての人の満足に最高度に対応できる消費社会を打ち立てることができるはずです。それと同時に御用達経営においては、むやみに顧客数を増やしたり、 販売数量・金額を増やすということは決して好ましいことではありません。なぜならば好みがよくわからない買い手を増やしても相手のニーズにぴたりとこたえることはむずかしいですし、言ってみればお馴染みさんではなくて一見(いちげん)さんだけを相手に数量と金額を増やしていっても、結局は買い手との間で深い関係のネットワークを結ぶことが困難ですから、経営は進化しにくくなり、不安定になってきます。 御用達経営というのは、「あつらえ」るということを基本に、特定の、相互に信頼関係が確立した買い手に対して、他にはない独特の商品を提供していくということが基本になるのです。

(22)すでに御用達経済は始まっている
そしてすでに今の段階で、ロハスな生活のなかでは御用達経済は幅広く始まっています。たとえば、ロハスな生活において買い物をするときには非常に多くの情報が買い手と売り手の間で交換されることが普通です。すなわち価格と数量以外に、たとえば農産物であれば産地の情報や生産過程の履歴、あるいは調理法や後片付けの方法など、買い手が知りたい、学びたいと思う情報の多くが売り手から提供されていきます。 特にロハスのビジネスはインターネットや通信販売で行われることが多く、店頭で直接商品を見て選択する以上に、詳細かつより深く踏み込んで、情報のやり取りが行われることが多いようです。買い手はその情報をもとに購買活動を行うと同時に、売り手は買い手から要求される情報を提供していくことをとおして、売り手が何を求めているのか、売り手が足そうとしている用は何であるのかを知ることができ、それを念頭に、より適切な商品を買い手のために「あつらえ」ていくことが可能になっていきます。さらに特にインターネットを使ったビジネスでは、自分の会社が推薦する他の商店や、情報を提供してくれる外部のサイトがリンク先として紹介されていることが一般的であり、もし買い手がその売り手を信用するのであれば、その売り手が紹介し、リンクを張る先の商店も同じように信用されることが一般的です。あるいはロハスの世界ではインターネットや雑誌あるいは本に、ユーザーの体験記が多数掲載されていて、買い手も売り手も無数に流れるそうしたユーザーの情報に基づいて、より自分たちの行動を改善・改良し、進化させていくことができるようになっています。ですからロハスの世界では既に御用達経済が事実上始まっていて、ロハスの延長線上にある 「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会においても、御用達経営と、それに基づく御用達経済が広く社会全体に行き渡ると想像できます。

(23)新しい教育システム
ではこうした世の中の変化を支える新しい教育システムはどのようになっているのでしょうか。先にも述べたように、「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会の教育の基本は、人に若いうちから様々な分野で試行錯誤を経験させ、どんな分野で潜在能力が開花しそうか注意深く判断し、方向性が見えたら適切な刺激を与え、楽しいという気持ちが壊れないように成功体験を積ませ、その結果として本人が持つ潜在能力を最大限に開花させていくという方法です。ここで特に教育システムの側がよく注意しなければならないことは、21世紀の「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会を支える実力というのは、まず第一にひとりひとりが開花させる潜在能力にあるということと、第二に組織のチームワークが作り出す相乗効果や、種、空間、時間を越えたコラボレーションが作り出す相乗効果にあるということです。すなわちこれからの時代は商品の品質と価格という面においては、内外入り乱れた強烈に厳しい時代が続きます。したがって何人たりとも中途半端な実力ではまったく世の中に通用しませんし、単に表面的な能力によって人を集めただけの組織では、決して厳しい顧客のニーズに対応できる商品を提供し続けることはできません。人の潜在能力を開花させ、またチームワークやコラボレーションの相乗効果を発揮させるためには、 非常に緻密で創造的で情熱的な教育が必要であり、単なる知識の詰め込み教育だけではだめであるのはもちろんのこと、個人を競争させてそれを動機付けにするような教育でもだめだと思います。さらにこれからの学校は現在のように年齢で輪切りにする教育では全くだめで、人は生涯にわたって企業と学校を自由に行き来することができ、 教育が個人と社会のセイフティーネット(安全網)として、あるいは疲れた心と体を休め、人生の方向性を転換し、年齢の上昇とともに次の段階のライフスタイルに合わせた能力とやる気を提供する場になっていなければならず、新しい挑戦への意欲を掻き立てる場所として機能することが必要です。恐らく今の日本で、「グレイト・コラボ レーション = 偉大なる共生」社会の到来を前提にしたとき、そこから一番距離がある のが教育システムではないかと思うのです。ロハスな生活というものが日本で急速に浸透しつつあり、御用達経済もロハスの世界でここまで浸透している現状を見るとき、 それが社会全体のシステムとなって、「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会という形で定着し、成功するか否かは、それを支える人材を適切な教育システムによって輩出できるかどうかにかかっていると言っても過言ではありません。この21世紀型システムの最後の難関は、その教育システムにあります。

(24)試行錯誤と適切な刺激
そもそも試行錯誤というのは、最初は必ず失敗すると言っていることと同じです。 また適切な刺激というのは、初めの段階で本人が自発的にこれはおもしろい、やってみようと思うものを見つけるまで、考えうるありとあらゆる勉強なり体験を、試行錯誤を繰り返しながら積ませていくということを意味し、一度そういうものが見つかった後は、怠けることなく、しかし無理に過ぎることなく、実力がどんどん向上していくように、本人に最も合った教育プログラムを「あつらえ」て、効果的に実施していくということを指しています。恐らく今の日本の状況を考えれば、実質的に人が成人になる年齢は30歳であり、30歳までが試行錯誤と、プロフェッショナルとして認められる前の見習いの期間になると思います。一般に義務教育というのはその教育を受ければ普通の人でも安心して生活し、仕事をし、結婚し、子育てを行い、安心して老後を送ることができる実力を得られる教育のことを意味します。残念ながらこれから来る「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会において、何歳までに何を教えることで義務教育が成立するのか、それは少なくとも10年ぐらい、試行錯誤的に様々な教育を行ってみないと結論は出ないと思います。この間は社会のさまざまな人たちが、自分がこれがよいと思う教育をそれぞれ行ってみて、10年ぐらい経った段階で結果を評価して、方向性を決めていくということが現実的だろうと思います。

(25)21世紀の学校のイメージ
そして義務教育を過ぎて大体30歳までの教育と、その後の生涯教育については日本全体で本当に無数の試みが展開され、数多くのユニークな教育によって、実に多様な人材が社会に送り出され、まさに違いが強さにつながるような社会が生まれてくると思いますが、わたしの私案として、義務教育終了後、10年から15年ほど半分働き、半分学びながら通う21世紀の学校のイメージを書いてみたいと思います。その学校は資金的には3分の1は親の援助、3分の1は外部からの寄付、そして残り3分の1は自分たちでお金を稼ぐ(自給自足を含む)という形で運営されています。中心的な考え方として、30歳で一人前になることを目標にしており、それまでにプロフェッショナルとして自立できるための教育を行うことが最も大切なことになっています。同時にもし30歳を過ぎて転職や悩みを抱えて疲れてしまったような場合には、 いつでも学校に戻って来ることができるような体制が整えられています。教育の柱は3本あって、生活、実習、そして座学です。さらにその中はそれぞれ次のように分か れています。


1. 生活
・日本文化 −お茶:作法、食事、芸術
      −合気道:体作り、精神統一、気の訓練
                −神道:日本哲学、天地人の統一

2. 実習
・ものづくり:実際に工芸品や工業製品を製造します
・農作業:毎日農作業を行います
・販売:ものづくりと農作業で作った品物を販売します

3. 座学
実習関連科目
・ものづくりに関して−理工学、品質管理
・販売に関して −経営、金融、会計
・農作業に関して−生物、環境、保健

教養科目
・組織のリーダーシップ:未来を創る方法
・コンピュータ:ワープロ、表計算、プレゼンテーション、 データベース、インターネット
・外国語:英語、アジア各国語、エスペラント語等
・数学:数的論理
・歴史:日本史、世界史
・法律:大陸法と英米法、人権、契約、倫理、法律実務
・政治:憲法、行政
・異文化交流:地理、旅行、ディベート

座学に関してはずいぶん科目が多いように見えますが、あくまでも実習をしていくなかで出てくる疑問や改善を行うためにどうすればよいかという問題意識で学ぶものです。ですから学問を学ぶための座学ではなく、本当に必要なことをコンパクトに学び、それを実習で試して腹で理解させるという考え方です。教養は文字どおりの教養で、特に今すぐ役に立つことはないかもしれませんが、知っていればどこかでとても役に立つというものです。もちろんそのなかの多く、特にリーダーシップやコンピュータや外国語は生活や実習のなかで具体的に問題が出てきますので、座学はそのまとめみたいなものです。これはあくまでもわたしの私案ですが、きっと日本全体に新しい学校を作ろうという機運が一気に盛り上がって、さまざまな教育が一斉に花開くときが近いうちに来るだろうと、わたしは思っています。

(26)21世紀の政治システム
では「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会における政治システムはどのようになっているのでしょうか。今までに述べたこの新しい社会における様々な特徴をもとにさまざまな利害損得を最終的に調整し、社会全体がより良き方向へ常に進化生成発展できるように気を配り、人々や組織をリードしていく責任を負うのが政治システムです。今の段階では近未来の日本で国と地方でどのような役割分担が行われるようになるのか、明確に判断することは難しいと思います。しかし流れとしては地方分権が拡大し、同時に中央政府の果たす役割は小さくなり、そのなかで住民の生活を守るという使命を負った地方政府は、民間を指導することではなくて民間と「共生」すること、そして地域を統治することではなくて、地域を「経営」することにその主眼が動いていくだろうと思います。それと同時にロハスな生活、そしてその延長線上にある「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会においては、善悪という価値観が復活しています。健康と持続可能性という二つの大きな価値観の土台の上に、善悪の価値判断が載ってきます。ですから政治は、20世紀までの清濁併せ呑むというやり方が通用しなくなり、倫理や法律・規則の遵守、透明性の確保、行政手続の透明化、予算の効果的・効率的運用等に関して、現在よりもはるかに厳しい要求が住民から出されていくことは、まちがいないだろうと思います。その結果、政治や行政は20世紀のような、「民はこれに由らしむべし、これを知らしむべからず」というや
り方が通用しなくなり、政府はお上であるという雰囲気から、政府は地元のネットワークのひとつであるという雰囲気に変わっていき、もう少し踏み込んで言えば、政府は数あるNPO法人のなかのひとつである、というように人々の意識が変わっていくだろうと思います。そのため税金や社会保障負担に関してもお上に納めるという意識から、必要経費を割り勘で負担するという意識に変わっていくだろうと思います。 さらにあるところまで一度政府が小さくなった後は、民間と政府の役割分担に関して 非常に戦略的に考えて行動する地域が出てきて、政府の役割というのは地域ごとにかなり差があり、それが各地域の個性であり、特徴になっていくのではないでしょうか。 最終的に基本的な政府と民間の役割分担の考え方は、現在の北欧で見られるような形態に落ち着き、自由競争と小さな政府を旗印に国民が放置されるのでもなく、また社会主義国のように国が丸抱えで国民の面倒を見るというのでもなく、両者の強みを生かして、民間の活力とセイフティーネットが共に充実した姿へと変わっていくだろうと思います。もう既に日本の地方自治はこのような未来の特徴を備えた姿に変わり始めており、この流れが加速して21世紀の新しい政治システムが地方から生まれてくるのだろうと思います。

(27)日本の製造業はどうなるのか
またこうして新しい時代が進んでいくなかで、今の日本を支えている日本の製造業はどうなっていくのでしょうか。基本的に日本は製造業の現場の強さで考えたら世界一だと思います。しかしその一方で経営手法や戦略において改善すべき点が多々あり、その悪影響が現場に暗い影を落としていることも多々あります。さらに現場の強さといっても、熟練技能者の退職や海外生産移転などで空洞化している部分がたくさんあるのも確かです。しかし世界と比較した場合には、日本の製造業の現場の強さは、依然として世界一だと思います。わたしは「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会が来ても、引き続き日本は製造業の大国であり続けるだろうと思います。ただし、今までの20世紀の姿といくつか変わる点があると思います。まず、製造業は大企業でも中小零細企業でも、非常に熾烈な国際競争にさらされ続けるでしょう。そ のため、製造業を担う人は野球で言ったらアマチュアの草野球の選手ではなくて、プロ野球の、それもメジャーリーグの選手が活躍する場所になるだろうと思います。米国のメジャーリーグに全世界から優秀な人材が集まっているのを見ればわかるように、 日本の製造業にもこれから全世界から優秀な人材が集まってくるのではないでしょう か。したがって20世紀のように製造業が国を支える産業であり、国民の雇用の中心であるという姿は次第に変わっていくと思います。特に競争力の強い製造業は世界の製造業であり、ものすごく実力のある人が働く場所だ、ということになっていくのではないでしょうか。それからもうひとつ変わる点は、どんなに競争力の強い製造業で あっても、これからは健康と持続可能性という2つの基本的な価値観を揺るがせにするような企業は、社会から排除されていくだろうということです。ともすると今の製造業は激烈な競争を勝ち抜くために基本的な価値観を揺るがせにしたり、判断基準を使い分けたりするところがあります。そういう企業は恐らく、これからの時代には人々から拒絶されるでしょう。ということは、これからの日本の製造業には非常に優れたリーダーが必要になるはずで、優れたリーダーがいないところは、経営としては次第に成り立たなくなっていくのではないでしょうか。

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第5章 改革・国創りはどうやって進めればよいのか

(1)昭和31年の経済白書
さて、ではこのような特徴を持つ「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」 社会へ今の日本が本格的に移行するには何が必要なのでしょうか。基本的にロハスな生き方は静かに幅広い層の日本人に広がりつつあります。ですから時代は何もしなくても自然とロハスな方向へと進んでいくでしょう。しかし、時代は時として、「勢い」を求めます。わたしは今の日本を見ていると、ちょうど昭和30年頃の雰囲気に似ているような気がするのです。昭和30年というのは翌年の経済白書にもはや戦後ではないと書かれた年で、昭和31年の経済白書を若干長くなりますが、以下に引用して みたいと思います。「もはや「戦後」ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。 回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである。新しきものの摂取は常に抵抗を伴う。経済社会の遅れた部面は、一時的には近代化によってかえってその矛盾が激成されるごとくに感ずるかもしれない。しかし長期的には中小企業、労働、農業などの各部面が抱く諸矛盾は経済の発展によってのみ吸収される。近代化が国民経済の進むべき唯一の方向とするならば、その遂行に伴う負担は国民相互にその力に応じて分け合わねばならない。近代化 −トランスフォーメーション−とは、自らを改造する過程である。その手術は苦痛なしにはすまされない。明治の初年我々の先人は、この手術を行って、遅れた農業日本をともかくアジアでは進んだ工業国に改造した。その後の日本経済はこれに匹敵するような大きな構造変革を経験しなかった。そして自らを改造する苦痛を避け、自らの条件に合わせて外界を改造(トランスフォーム)しようという試みは、 結局軍事的膨張につながったのである。」

(2)キーワードが未来を創る
この昭和31年の経済白書のなかには、「近代化」が国民経済の進むべき唯一の方向だと書かれていますが、昭和30年代以降の20世紀は、世の中のあらゆるものが「近代化」という名前のもとに変化していった時代だと思います。小さな工場が大きな工場になるのも近代化。石炭に代わって石油が使われるようになるのも近代化。海塩が精製塩になるのも近代化。トイレが水洗式になるのも近代化..。まさに時代は「近代化」というひとつのキーワードを得て、一気に前に進んだのだと思います。さらに戦後の高度経済成長を推進したエコノミストである下村治氏は、以下のように発言したと紹介されています(『エコノミスト三国志』・水木楊著・文春文庫・平成11年より引用)。「日本経済についてありとあらゆる弱点を言いつのり、いまにも破局が訪れるような予言をする人々を見ていると、アンデルセンの醜いアヒルの子を思い出す。その人々は日本経済をアヒルかアヒルの子と思っているのではないか。実際の日本経済は美しい白鳥となる特徴をいくつも備えている」。まさに今の日本もそのとおりだと思うのですが、時代の転換点ではとかく長所が目に付かずに短所だけが目に付き、将来に対して悲観的な思いが高まっていくものです。 だからこそ、時代は勢いを得て次の新しい時代へと進んでいかなければならないので す。

(3)改革に対する抵抗と戦ってはいけない
さらに時代を動かすキーワードが決まり、改革が始まったとき、必ずそれに対する反対と抵抗が生まれてきます。平成に入ってからの日本政府の構造改革に対する反対と抵抗は、昭和31年の白書に引用された姿と本当によく似ていると思います。しかし昭和の近代化はその後大成功を収め、古いものが壊れると同時に新しい時代がどんどん栄えていったのに対して、なぜ平成の構造改革はやってもやってもいたずらに破壊ばかりが広がり、国民の多くが絶望的な状況になっていくのでしょうか。いつの時代にもどんな組織にとっても変化は緊張を伴うものであり、変化に対する合意がなかなか得られないのは、ごく当たり前のことです。一般にリーダーシップ理論のなかで、 組織を変化させるときにどこが最も肝心なポイントかというと、変化への抵抗が起きたときに、それと決して戦うことなく、相手の立場をよく理解し、共感して、相手が立ち行くように具体的に配慮していくところです。すなわち、改革への抵抗とは決して戦ってはいけないのです。ここで戦うから、改革は前に進まず、怨念だけが残り、決して建設的な改革にはならずに破壊だけが広がるのです。一方、改革を進めるにあたってひとりひとり、みな違う理由を挙げて改革に反対し、抵抗してくるのに対して、真摯に接して相手の立場に配慮していくと、やがて反対している人たちも完全に賛成はできないけれども、何がしかの譲歩や試行錯誤をしてみようという気になります。そうして初めて改革はいよいよ具体的な動きになっていくのです。ですから基本的な 考え方として、改革というのはそれを成し遂げた暁には、みながより幸せになれるという明確な確信と、強烈な情熱がどうしても必要です。もしその改革というものに欺瞞が入っていたり、一部の人を切り捨てて強い者だけが生き残ろうとするだけのものであれば、決して改革への反対や抵抗に対して真摯に接することができず、結局改革は挫折して破壊だけが残ります。

(4)成功事例の大切さ
さらに改革を推進する上で、成功事例を創ることは非常に効果的です。過去数年間の国土交通省の観光立国政策では、全国から観光カリスマと言われる人たちを募り、成功事例をたくさん紹介していきました。抽象的な話を聞いているだけでは足が前に進まない人たちも、成功事例に接すると具体的なイメージがわいてきて、行動してみようという気になるものです。今回の「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」 社会の建設においては、既にロハスな生活をしている人たちの成功事例が無数にあります。既に多くの日本人はロハスという言葉は知らなくても、その具体的内容や価値観については常識としている人がたくさんいると思います。平成17年の総選挙において、小選挙区で郵政民営化に賛成した候補に入れられた得票数と、反対した候補に入れられた得票数を比較すると、反対した候補に入れられた得票数が賛成した候補に入れられた得票数を上回っていました。これは非常に重要なポイントで、選挙制度の結果として議席数で郵政民営化賛成派が圧勝する形にはなりましたが、郵政民営化に賛成した候補に入れられた、まとまった数の組織票を割り引いて考えると、既に国民のかなり大きな部分は今までの改革を止めて、新しい変化を求めていると考えられます。それはひとつには改革の失敗が破壊を招いて人々を相当苦しめているからだと考えられますが、もうひとつは人々の価値観が既に変化していて、もっと別の発想で政治が動いて欲しいと考えているからではないでしょうか。

(5)国民の叡智を結集することの大切さ
そして改革の本当の力、国創りの本当の力は、いかに人々が知恵と努力を結集するかで決まっていきます。すなわち改革と国創りの本当の力は、国民の力の相乗効果によって決まるのです。だからこそ、改革や国創りというのは理屈を考えたらありえないような猛烈なエネルギーが湧き出してきて、信じられないような短時間で、信じられないような成果を得られることがあるのです。まさに昭和30年代の高度経済成長はその典型です。ごく少数の人が、たとえその人たちは特別優秀だとしても、多くの人々の無関心や反対を押し切って改革や国創りを進めようとしても、大した成果は得られないものです。反対に特別な人がいなくても、みんながその気になって協力して、 チームワークとコラボレーションが大きく広がれば、莫大な相乗効果が生まれて、改革や国創りは想像を超えるスピードで進みます。昭和30年代のそうした国民的エネ ルギーの勃興を象徴するのが、東海道新幹線の開業です。東海道新幹線は昭和32年に構想が打ち出され、着工されたのは昭和34年、そして営業運転開始がそれからたった5年後の昭和39年です。既に明治時代から弾丸列車の計画があり、用地の買収も戦前に一部行われていました。さらに新幹線を支えるさまざまな技術は、以前からその多くがいろいろなところで生まれ、試されていました。ですから東海道新幹線というのは、それまでの日本人がさまざまな場所と立場で手にした技術を、ひとつの思いに結集させて作り上げたものです。だからこそこの歴史的・国家的大事業が、かくも短い時間に出来上がったのです。そのことを、東京駅の東海道新幹線コンコースに納められた一枚の記念プレートが語っています。「東海道新幹線 この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された」。我々がこれから目指す「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会の建設もまさに同じです。日本人の想いを集め、日本人の叡智と努力によって完成させるべきものなのです。既にその基礎技術はすべて、今の日本に揃っているのです。

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第6章 「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会のインフラ整備

(1)インフラ整備のポイント
では、いよいよ具体的にこれから10年で国がどんなインフラ整備を行っていくべきかということになりますが、まず第1が「日本列島復元10ヵ年計画」と名づけた国土の徹底的な「大掃除」と「安全対策」。第2が「新ディスカバージャパン・観光立国10ヵ年計画」と名づけた全国一斉の観光立国に向けた地域おこし事業の展開。第3が「土から始まる個人経済復興10カ年計画」と名づけた国民全体への多目的型農業の普及。そして第4がすべてのインフラ整備と民間産業の育成を行うための資金を、広く国民から調達して、未来に残るすばらしい資産として残すためのインベストメン ト・バンク(投資銀行)の設立です。

(2)日本列島復元10カ年計画
まず、これから「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会を進めていくうえで一番ネックになるのが、20世紀の負の遺産として国土が乱開発であまりにも汚れすぎていて、また危険であるということです。ロハスの価値観である健康と持続可能性という価値観に照らしてみたとき、今の日本はまずその国土が健康な生活に向かない部分がたくさんあり、また持続可能な生活を営むことが危険でできない場所がたくさんあります。基本的にこれからの時代は民間の活力が時代を動かしていくわけですが、その前に、古い20世紀型の国家が21世紀の新しい時代に何を残せるかと考えると、それは国土の徹底的な「大掃除」と「安全対策」です。具体的には不要となった構造物の解体撤去、土壌や河川、湖沼、海の徹底的な浄化、広葉樹への植林のやり直し、徹底的な防災対策などであり、それをわたしは「日本列島復元10ヵ年計画」と名づけたいと思います。ちょうど昭和39年に東京オリンピックがあって、30年代の10年間に当時の「近代化」という方針のもと、日本の国土は大きく様変わりをしました。しかしその急激な開発は環境破壊などの大きなひずみを生み、その負の遺産はその後も「近代化」の進展と共に決して消えることなく、現在に残っていま す。さらに国土の安全対策を考えると近年多発する大規模な自然災害に対して、都市も地方も依然として大きな危険にさらされている場所が多いということに、改めて驚かされます。こうした「大掃除」と「安全対策」には多額の費用と多くの人手が必要になります。中小零細企業がヨコにネットワークを組みながら動いていくだけでは、 手に余るものがあります。ですから新しいインフラとして、最初に国が一気に事業を
進めておく必要があるのです。昭和39年に開業した東海道新幹線は東京・大阪間の移動時間を従来の半分に短縮しました。これが日本経済のその後の発展に大きな貢献をしたことは言うまでもありません。経済にはボトルネックという言葉があって、全体のシステムのなかで問題を抱えている特定の場所が全体の成長を阻害している場合に、そこはボトルネックになっていると言います。これから日本で「グレイト・コラ ボレーション = 偉大なる共生」社会を建設していくにあたって、大きなボトルネックになるのが、国土の汚れと危険です。これを「日本列島復元10ヵ年計画」で解消していくことは、非常に重要なことです。

(3)新ディスカバージャパン・観光立国10ヵ年計画
さらに次が本格的な地域おこしです。既に述べているようにこれからの日本の発展は地域が主役になっていきます。ところが地域の多くは既に過疎や不況で疲弊し、自律的に立ち直る力が失われているところが少なくありません。そもそも観光というのは英語では景色を見ると表現され、あたかも名所・旧跡・娯楽施設などの客寄せ物件に、人を呼び込んでお金を落とさせることであるかのように言われますが、実際には全く違います。永遠の観光地といわれるような、常に観光客が訪れて止まない場所というのは、そこに住んでいる人がその土地の衣、食、住を満喫していて、住んでいる人たちから出てくる優雅さ、その優雅さが放つ明るい光、それが観光資源そのものになっているのです。ですから観光というのは必ずしも観光地を見に行くだけではなくて、たとえば企業視察などでも、観光旅行というものが成り立ちます。非常に元気が良くて前向きに仕事に取り組んでいる企業を訪問すると、そこに働いている人から光のような明るさと元気を感じます。視察した具体的な内容は忘れてしまっても、そのときに感じた明るさと元気は、帰ってからの仕事に大きな張り合いを与えるものです。 ですから企業視察も観光地は見ませんが光を観るという意味で、立派な観光旅行なのです。というわけで観光立国というのは具体的にはどういうことかというと、初めから観光客がたくさん来るように設備を作るのではなくて、その土地に住む人がその土地の衣、食、住を満喫して住み続けられるように、その土地に最も適した生業、産業を確立させることを指すのです。適地適作、地産地消、天産自給の推進であり、新たな産業、企業誘致であり、地域の人材開発であり、あるいは文字どおり、観光地を美しく整備し、景観を復元し、特に20世紀の近代化の過程で失われた日本の良さを地域単位で復元していくという意味なのです。それを国が10年間ほど資金や人材、ノ ウハウに関して各地域の要望に沿って全面的に支援していこうということです。こうやって何らかの方法でその地域の衣食住が確立すれば、当然、他の地域から人がそれを見に来るでしょうし、何しろ観光産業というのは雇用の吸収力が非常に大きいですから、地域の雇用拡大にも大きな貢献をします。観光立国というのは、まず地域おこしを行って、それが成功することでその地域の衣食住を満喫する人が生まれ、同時にその地域が特色ある観光地になっていき、日本中にすばらしい観光地がいくつも生まれていくことを意味しています。江戸時代の人々の暮らしを見てください。大名の参勤交代そのものが旅行ですし、そのうえ、お伊勢参りなど、庶民の旅行が大流行し、 全国各地の名所旧跡、名産、名物が観光資源になり、全国的な経済交流が旅行を通じて広がっていきました。ロハスな生活においては、観光旅行はきっと大きく成長する分野だろうと思います。

(4)土から始まる個人経済復興10カ年計画
そして、日本がこれから改めて普及させていかなければならないのが、農業です。既に農業の世界では二極分化が鮮明に起きていて、高度農業といわれる非常に専門性と付加価値の高い農業は、競争力の強い日本の製造業と同じように、アマチュアの草野球ではなくてプロ野球、しかもメジャーリーグの世界にあると考えられ、この分野は国が国土の汚れを掃除し、危険を除去していけば、あとは民間の力でさらに発展できると思います。ですから高度農業の振興に関して、国が手を出す必要はまったくないと思います。そうではなくて、ここで言う「土から始まる個人経済復興10カ年計画」というのは、まず第一に、教育のところで述べたように、これを知っていれば生活や仕事に困らないという最低限の知識や技能のひとつとして、義務教育のなかで 「農」を教えようということです。ロハスな生活のひとつの理想的スタイルは、朝起きて、2時間ほど畑に出て、それから職場に行くというスタイルではないでしょうか。 人は「農」を覚えることによって、最低限の食料を自分で作ることができるようになります。最低限のものを自分で作って食べられるということは、人生の安心感を非常に高めるものであり、健康に良いだけでなく、持続的社会の維持発展においても極めて重要な働きをします。第二に人は「農」を覚えることによって、失業しても食べていくことができるようになります。どんなに安定的な社会でも、人はさまざまな都合で職を離れ、次の職に就くまでの間、失業状態になることがあります。現在ではそれ を国が保険という形でお金で保障しているのですが、これからの時代はお金をもらうのではなくて、自分で最低限の食べ物を作るということで対処していくべきだと思います。実際にはロハスな生活が広がっていくと、互いに畑で採れたものを交換し合うということは当たり前になるでしょうから、畑作りができれば、失業で絶望することはなくなるでしょう。仕事がなくてお金をもらうことはできないかもしれませんが、 畑で作ったもので最低限の生活を支えることはできるのではないでしょうか。

(5)安心して失業できる(!?)ことの強さ
わたしは以前から、安心して失業できる環境が企業の競争力の強化に非常に重要であると思ってきました。というのは先に述べたように人はかなりの試行錯誤を積まないと、その人の潜在能力が開花する仕事に出会うことができません。ということは人は特に若い間はある程度の失業を甘受しても、積極的に試行錯誤を行って、将来見事に花開く自分の仕事を探すべきなのです。ところが失業というものが絶望を意味すると、人はとりあえず手にした仕事を守ろうとし、結局はその人にも企業にも、そして社会にもあまり大きな貢献ができないままに、疲労感だけが広がっていきます。ですから社会としては、戦略的に安心して失業できる(!?)環境を作ることが、中長期的な強さにつながるのです。よく知られているように、失業保険をお金として長期安 定的にもらえる制度を作ると、人によってはそれで安心して怠けてしまって、就職の意欲もなくなってしまうという問題が起きます。だからこそお金で失業を支えるというやり方は避けるべきで、失業しても誇りを失うことなく、むしろ失業を契機として 自分に合った仕事により近づけるような仕組みを整えることが望ましいのです。特に失業で大きく人が傷つくのは、朝起きても働きに行く場所がないということであり、 だからこそ人は誇りを失わないために、失業しても毎日働きに行く場所が必要なので す。それが最低限、畑であれば、失業しても人にはしっかり仕事があります。それで最低限の生活を支えることができれば、あとは職業訓練や就職活動を安心して進めていくことができ、失業がその人を強くしていくことになります。だからこそ「農」、そしてその象徴である「土」は個人経済の原点であり、失業と無気力が蔓延した今の日本人を仕事の上から救うための、欠くことができない要素なのです。「土から始まる個 人経済復興10カ年計画」では、10年間にすべての国民に最低限の「農」を教え、 またすべての国民に最低限の畑を持てるように土地、資金、人材、ノウハウなどを国 が提供しようということです。

(6)新たなインベストメントバンク設立の必要性
さて、こうして新しい社会の姿が見えてきて、国がどのようにインフラ整備をするかが見えてきたとき、国のインフラ整備のための資金と、民間の産業育成資金をどのように調達するかという問題が出てきます。その基本は、決して20世紀の財政システムや市場経済システム、あるいはロハスの考え方に合わない金融システムは使ってはならないということです。多くの改革や国創りが失敗するひとつの理由は、その資金調達の方法にあります。すなわち実際に活動を担う人と資金を提供する人の意思がずれている場合、改革や国創りは最初から失敗する可能性が非常に高いのです。なぜ20世紀の日本と世界が最終的にかくも乱れてしまったのか。その大きな理由のひとつは20世紀の金融システムを担っていた財政システムと市場経済システムに目を覆うような腐敗が発生し、権力と利権の上にあぐらをかいた人々が、特定の人々だけに利益が行くように、恣意的に資金分配を操作してしまったからです。よく経済学では小さな政府がよいか、大きな政府がよいかと議論になります。また市場経済がよいのか、非市場経済がよいのかということも議論になります。しかし実際には物事の本質はそこにはありません。どんなシステムでも、それを担う人が腐敗をして、そのシス テムを利用して自分の利益のみを増大させようとしたら、決して世の中は良くならな いのです。したがって「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会を創るためには、健康と持続可能性、そしてその上に乗る善悪という価値観を絶対に揺るがせにしない金融システムが、絶対に必要となるのです。残念ながら現在の財政システムも市場経済システムもすっかり腐敗が進行し、到底21世紀の新しい国創りのニーズにこたえることはできません。だからこそ、新しいインベストメントバンクを設立しなければならないのです。

(7)インベストメントバンクとは何か
では、なぜその新しい銀行が「インベストメントバンク(投資銀行)」なのでしょうか。インベストメントバンクとはそもそも何なのでしょうか。インベストメントバンクをひと言で言えば、産業金融の担い手ということになります。それはお金を産業に変える、紙を実物に変える力を持った銀行という意味で、お金の世界と同時に産業の世界のことも精通していて、中長期的な産業発展とそれを通じた国家の発展のために、お金を動かしている銀行という意味です。日本で言えばかつての日本興業銀行が典型的なインベストメントバンクです。具体的には独自に資金を一般から集めて、それを長期で安定的に貸し付け、中長期的な産業と国家の発展を担うという銀行です。普通の商業銀行は元本保証で預金を集めて、それをせいぜい1年ぐらいを満期として一般の企業へ主に運転資金の目的で融資しています。ですから普通の商業銀行をいくら大 きくしても、中長期的な産業育成資金は調達できません。では一方で、市場を使った株式、社債による資金調達はどうかというと、こちらは市場が持つ非常に不安定な値動きと、大量の資金を持ちながら、腐敗した一部の投資家が恣意的に市場を操作するために、とても善意の人々が考える多額の資金の安定的調達は不可能です。これからの時代に本当に競争力のある産業を育成し、新しい国を創ろうとしたら、たとえば1千億円の資金を固定金利で10年間貸し付けるといったぐらいのことができなければだめなのです。昔の日本はそういう大胆な資金調達を日本興業銀行のような長期信用 銀行や、政府系金融機関、あるいは財政が直接担っていました。しかし平成の構造改革でこうした中長期の金融システムが壊されてしまったため、日本はこれから新しい国創りを進めるための新たなインベストメントバンクを、設立しなければならないの です。

(8)日本に資金はあるのか
では、そういう新しいインベストメントバンクを設立して、それで調達できる資金は今の日本にあるのでしょうか。恐らく今の政府はそう遠くない時期に完全に財政が行き詰まり、現在の緊縮財政を維持できなくなって、膨大な財政赤字をまかなうために、日銀に膨大な紙幣を発行させざるを得なくなると思います。一方で国民は銀行預 金、株式、債券という形で膨大な資産を保有していますから、簡単に考えたらこの国民資産を財政赤字に充当すれば問題は解決するように思えます。ところがそうはいきません。今のような改革を進めていくと国民の生活はますます疲弊し、国民は自分の身を守るために決してお金を今の政府に渡そうとせず、結局お金は投資先がないままにインフレで価値が減っていってしまうだけです。日本がこれから新しい国創りを行うにあたって、それに使える資金は多くの国民がそれぞれ自ら蓄える形で持っています。しかしそれを政府が権力を使って取り上げようとしたり、市場が欲望の誘惑を使って取り上げようとしても、日本では決して成功することはないでしょう。お金を持っている特に高齢者の人たちが、自分たちの未来のためにお金を出そうと本気で思うような国創りが始まるまでは、びた一文たりとも、積極的な投資に資金が出てくることはないでしょう。しかし高齢者の人たちもインフレが来ればお金の価値がなくなってしまうことを、戦後の混乱期の経験を通じて痛いほどわかっています。お金は所詮、 紙であり、紙は実物に換えなければ我々は生きていくことができないのです。ですから今までのようにデフレの時代であればとにかく現金で置いておけばお金は目減りしないし、一番安全確実だったわけですが、インフレが始まった今、お金は黙って置いておけばインフレ分だけ必ず目減りしますから、お金は運用するか使わなければならなくなります。ところが運用のほうは市場が非常に不安定に動く時代ですから、長期安定的に運用で資金を増やしていくということは、ほとんど絶望的です。そう考えると、今の時代、お金は積極的に使うしかありません。恐らく高齢者の人たちがこれからの時代にお金を使うとしたら、まず第1の目的は健康を保ちながら楽しく長生きするためであり、第2の目的は次の世代を育てるためだと思います。これは驚くべきこ とにいずれもロハスの価値観、すなわち、健康と持続可能性に見事に合致しているのです。ですから現役の世代が誠実にロハスの価値観を守って、「偉大なる」共生の本当の意味を噛み締めながら仕事を進めていけば、必ずや多くの資金がそこに集まってくるはずです。

(9)旧体制との衝突
実はこれから日本が国を挙げて「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会の建設を始めた場合、20世紀の旧体制、すなわち財政システムや市場経済システムを担っている人たちと真っ向から衝突して激しい戦いの場になると想定されるのが、 この新しいインベストメントバンクです。旧体制にしてみたら、ここで全く違う価値観の国創りに巨額のお金が吸い取られてしまったら、それだけで旧体制は終わりです。 「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会において戦いということはありません。しかし、旧体制から離脱する最初のところでは、まさにロケットの打ち上げのごとく、引力に逆らって宇宙空間に脱出するために、巨大なエネルギーと周到な準備と的確な運営が必要になるのです。だからそこで戦いが起きるのです。まるで植民地独立運動みたいなものですが、実はこの戦いにもちゃんとやり方というものがあるのです。すなわち旧体制は力と虚偽を駆使して戦いを挑んでくるのに対して、こちら側は健康と持続可能性という価値観をしっかり守って戦わなければならないということです。相手はルールなしにどんなやり方でもして相手を倒そうと襲いかかってくるのに対して、こちら側は自分たちで守ると決めた価値観をしっかり守り、戦い、勝たなければならないのです。そんなことは不可能だと思われるかもしれませんが、決して不可能なことではありません。いやむしろ、戦いというのは往々にして敗軍のほうがルール破りの何でもありの戦いを繰り広げ、勝軍のほうが最初から整然とした戦い を繰り広げるものです。戦いの結果として平和と安定が来て、戦いが終われば敵も味方もなく、みんな同じ仲間として新しい国創りに共に参加し、国民がこぞって共生していくためには、たとえどんなに状況が不利であっても、決して価値観を揺るがせにしてはいけないのです。具体的には情報公開を徹底し、戦いをできるだけ長引かせ、 そして戦いをとおして多くの人にその意味と新しい時代の必要性を認識してもらい、 多くの人々の静かなる支持を磐石のものにしていくというやり方です。幸いにもシンクタンク藤原事務所の園山英明氏が、過去十五年間にわたって財政システムと市場経済システムの両方の本質について最先端の研究を積み重ねておられるので、旧体制の金融システムの姿についてはその本質が既に見えています (http://aeruba.co.jp/services/sonoyama.php)。ですから、あと必要なのは、新しいインベストメントバンクを担える人材です。高度の実力があって、価値観を揺るがせにすることなく、新しい日本の国創りの基礎を固めることができる人、そういう人は必ずや今の日本から出てくると思います。

(10)アーティストが活躍するとき
そして「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会の先頭で人々に元気を与えていく中心的役割を担うのは、アーティスト(芸術家)だと思います。今までの時代、人々を動かす中心的役割は政治家、学者あるいはマスコミが担ってきました。 しかし「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会においては、政治家は原理原則を述べることと、後ろに回って細かな調整をすることが仕事ですし、理性が相対化されている世界では、学者の理詰めの話は決して人々を動かしません。またマスコミの情報は無数のネットワーク情報のなかに埋もれてしまい、決して人々を動かす力とはなりえないと思います。これからはアーティストが人々を動かす時代です。具体的には未来の姿を予感させるような絵や写真や映画であったり、みんなの気持ちを動かす文章や歌や演劇であったり、ロハスなデザインであったり、ロハスなスタイル であったりするのですが(たとえばインターネット書店の https://www.amazon.co.jp/ などで、 ロハスというキーワードで検索してみてください。本以外に音楽や映画が出てきます)、 注意したいのはいづれも政治的目的に沿ったプロパガンダではなくて、ごく自然にそれぞれのアーティストが、自分の感性をほとばしるような情熱で人々に表現していくなかで、結果的に人々が動いていくということです。感性の世界というのは現実の世界から見れば相当デフォルメされた世界です。そのデフォルメというものが芸術家の仕事であり、人々の心を捉える力となるのではないでしょうか。もう既に現代のアーティストはロハスな生き方に相当大きな接点を持っています。もう既に今までのロハスの発展のなかで、アーティストが多大な貢献をしてきました。したがって引き続きこれから先の時代にも、アーティストが世の中の最先端を切り開く重要な担い手となっていくのではないでしょうか。

***

第7章 黄金の21世紀

(1)10年後の日本のビジョン
こうして日本は10年もすると、「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会というものが目に見える形でその全貌をはっきりと現してくるだろうと思います。 そのなかで旧体制にいる人たちも次第に新しい時代の良さに気づき、新しい国創りに参加していくことでしょう。また依然として戦乱に明け暮れる国々でも、この先の新しい国創りの目標として、日本の新しい姿を見学しに、まさに光を観る観光客として、 大挙して日本を訪れるようになるでしょう。日本はロハスな生活の見本であり、ロハスな産業の見本であり、芸術家が競って創作を行う場であり、観光と農業の国であり、 同時に最も高度化された製造業の中心国となっているでしょう。国土は大掃除が終わ ってすっかり美しくなり、またどんな山奥に行っても人が安全に暮らすことができるインフラが整っていることでしょう。各空港や港からは道路や鉄道が整然と日本各地をつなぎ、景観に配慮された町並みは非常に個性的で美しい姿を内外の観光客に見せてくれることでしょう。地域によってはたくさんの外国人が住んでいるかもしれません。また通貨も国の共通通貨以外に、まったく独自の企業通貨、地域通貨、ネットワ ーク通貨が並列的に使われているかもしれません。違いが強さになるという言葉そのままに、ありとあらゆる環境変化に対して、日本は大いなる多様性を生かしなら、柔軟に対応していくことでしょう。こうして日本と日本人は「グレイト・コラボレーシ ョン = 偉大なる共生」社会の創造をとおして大きな成功体験と自信を手にし、それが誇りとなると同時に、人間として価値観が大きく飛躍したことに気づくことでしょう。 それはまさに黄金の21世紀の到来と言うべき姿であり、日本で生まれたこの新しい社会の姿が世界に広がっていき、世界全体がやがて黄金の21世紀を迎え、結果的に人類全体が飛躍的に価値観を向上させることができるのだと思います。この偉大なる国創りはもう既に目に見えないところで、日本人の気持ちのなかで、静かに始まりつつあります。それをさらに発展させてすばらしい日本を創ることが、今を生きる我々日本人の、重要な役割なのです。

藤原直哉 拝

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読んで終わりにしないように。

PDF版は、こちらからお読みいただけます。(株式会社 あえるばサイト内)

今後も私たち認定NPO法人日本再生プログラム推進フォーラム(NSP)の活動を通して、そしてご縁をいただく個人・グループとのコラボレーションを通して、「グレイト・コラボレーション = 偉大なる共生」社会を私たち一人ひとりがどのように考え、行動していくのか、日々共有していきたいと思います。

scrapboxにて、共有の入り口の場を展開してみようと思います。
ときどき、こちらも覗いていただけると嬉しいです。





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