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記憶装置におねがい

いちはらさん


鬼滅の刃,まぁーたいへんな勢いですね。

たしか,いちはらさんだったと記憶しているのですが,数年前に

『近年は価値観・メディアの多様化もあって“その世代のほぼ全員が履修する作品(曲・漫画・アニメ・映画:etc)”というものが無いように思うけれど,今の10代がオッサンになって同世代の誰かとコミュニケーションをとるとき,互いに通じる「あんときのアレな!」って何になるんだろうか』

……という内容のツイートを見かけて以来,たまに思い返していましたけれども。

たぶん鬼滅は,間違いなく「アレ」のひとつになりましたよね。

20〜30年後のアラサー・アラフォーたちも「〇〇の呼吸!」と言ってはフヒヒと笑い合うんだろうな,と思うと,なんだかちょっと楽しいです。


生活圏内で誰かと雑談を交わすときにも,鬼滅の刃が結構な頻度で話題にのぼります。

そんなとき,「うちの子もすごくハマってて。でもあれ結構残酷なシーンあるけど,いろいろ大丈夫なのかな……」と心配する親御さんに,ちょいちょい遭遇します。

そんな不安げな表情を浮かべた親御さんたちの多くは,わたしとほぼ同世代です。

「なぁに,ぼくらも『北斗の拳』見ながら育ったじゃないですか」

そう返そうかと思うものの,はて今のわたしは”いろいろ大丈夫なのか”と己に問えば,彼ら彼女らの心配を一蹴できるだけの根拠はどこにも見当たらず。

ちょっと逡巡したのち「そっかー」と,ふわっふわのアルカイック・スマイルを浮かべ,一連のやりとりを流していくのでした。

ちなみに,わたしの推しは甘露寺さんです。

***

油断しているとすぐに忘れてしまうから、いろいろ名前を付ける。

そうか,名前って,小さな小さな記憶装置でもあるんですね。

きっと誰しもが,ことばにも,詩にも,歌にも,もちろん本にも,「記憶装置」のような機能をもたせていると思うのですが,


記憶力の低下が起こったとき,その「記憶装置」たちは,うっすらとでもアウトプットをしてくれるだろうか。もしそんなことがあるとするならば,そのアウトプットは本人にとって心地よいものであるといいな……


仕事中,記憶障害についての原稿を読みながら,そんなことをぼんやりと思いました。

***

ふと思い出したのは,実家で暮らしていた頃のこと。

さまざまな予定・人名・物事をそれとなく誰かの耳に入れておいて,後日おもいだせない時に「あれっていつ・だれ・なんだっけ?」と相手に問う……ということを,何度か母にやられて少しうんざりしたわたしは

「ちょっとぉー,ひとを外部記憶装置みたいに使わないでよねー」

と,ぶうたれたことがありました。

最近ではすっかりCloud上にもろもろおまかせっぱなしの身から振り返ると,過去のわたしはずいぶんと自分を高く見積もっていたものです。若さってこわい。

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そういえば、どうして「さばくのひがさ」という名前を?

この往復書簡を始める数年前に,いちはらさんが

「次に誰かと往復書簡をするときのタイトルは決めてある」

と,そのタイトルも含めツイートされていたの,おぼえていらっしゃいますか。

いちはらさんの往復書簡かー,楽しみだなぁ……と,まさかのちに自分が往復書簡相手のひとりに(ふたたび)なるとは思いもせず,当時そのタイトル名を記憶に刻んだのでした。

……まぁ結局,そのツイートを(結果として)無視する形で「さばくのひがさ」と,このマガジンに名を付けさせていただいたわけなのですけども……。


よかったらいつか,(仮)のままになっているあのタイトルについて,名付けの理由を聞かせてくださいね。

この往復書簡の,最終回のときにでも。

(2020.11.27 西野→市原)