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光の射したある日の朝

取材・文=𠮷川 幸歩(N高7期・通学コース)

今年の8月6日に原爆投下から77周年を迎えた広島。そんな広島の様子を、広島で過ごしてきた筆者の視点で取材した。

あの瞬間を今に感じる

8時15分。黙祷の瞬間、沈黙と共にゴーンと低い鐘の音が響いた。
鐘の音は、まるで過去の瞬間と今の時間を繋ぎ合わせているようだった。

私を含めた広島市民にとっては、何度も聞いた鐘の音、何度も行った黙祷である。しかし、きっとこれからも慣れることはないだろう。

雲の隙間から太陽が顔を覗かせるようになり、正午には灰色だった空が青でうまっていた。

原爆ドーム

原爆と聞き多くの人が想像する場所がここ、原爆ドームだろう。
私が原爆ドームを見に行ったのは丁度12時だったが、多くの人が原爆ドームの周りを囲んでいた。
写真を撮る外国人観光客、ガイドさんの説明を受けている家族連れやカップル、大学生くらいの若い3人組。幼児からご老人まで年齢層は様々だ。

原爆ドームは原爆投下以前、産業奨励館という街のシンボルだった。
しかし、爆心地から160メートルという至近距離に位置していたため、木造でなくても崩壊を免れることはできなかった。
建物の中にいた人は全員死亡。冷たい骨組みと瓦礫だけが生々しいまま残っている。

写真 : フリー素材
原爆ドームの周りに落ちた瓦礫の跡。

今この建物が原爆や戦争の悲惨さを伝える象徴として置かれているのも、それらを忘れないように残しておこうと声をあげた人達がいたからだそう。
私がそれを知ったのは中学校で平和学習を受けたときだった。その声がなければ、この建物が象徴となり、後世に語り継がれることはなかったのかもしれない、と非常に驚いたのを覚えている。

自分の家がいつ爆弾に壊されてしまうか分からない時代。もしその時代に生まれていたとして、私は生きることができたのか。考えるだけでも胸が苦しくなる。

無限の千羽鶴

原爆の子の像の周りには、願いが込められた折り鶴達が無数にいる。
日本国内だけでなく世界中から届けられたもので、折り鶴を紐で数十羽まとめて連ねているもの以外にも、折り鶴をボードに並べ"平和"の文字を表現しているものなど様々だ。

広島の公立の学校では平和学習の一環で、学校全体で毎年折り鶴を折り、ここに届けに来るという慣習がある。
今もそれは続いており、私も折り鶴に糸を通すのを手伝ったことがある。
当時は細かくて大変だった作業も、今思うと平和について考える大切な機会だったのかもしれないと思った。

銅像の内部には鐘が設置されており、来ていた人たちが順番に鳴らしていた。
世界中の人々の気持ちが込もっている鐘の音は、戦争の悲しさを訴える声にも、平和を願う声にも聞こえた。

写真:フリー素材
世界中から寄せられた願いの込められた折り鶴は、色とりどりに銅像を囲っている。

公園の木漏れ日

平和公園は、春になると桜がとても綺麗な場所だ。
猛暑だったため、木陰のベンチで休憩する人も多かった。

私も少し休憩しようと木陰に足を踏み入れたとき、光の色がガラリと変わった。
葉の重なりの隙間から漏れる木漏れ日だった。
緑色の木漏れ日は、日常の中の小さな幸せを実感させてくれた。

原爆が投下されるまでは普通に人々が生活を営んでいたこの場所。あのときにも同じように小さな幸せを感じていた人がいたに違いない。小さな幸せのごく近くで起きてしまった戦争、そして原爆投下。それらはわたしたちにとって、そんなに遠いところの出来事ではないのかもしれない。

ここまで読んでくださったあなたへ

歴史は伝えようとしなければ、決して後世に伝わることはない。まるでなかったことのように消えてしまうだろう。
恐らくこの記事をここまで読んだあなたは、少なからず政治や世界情勢に興味があるのだと思う。
現在、ウクライナ情勢や核兵器使用危機が懸念されている。
平和の定義が物議を醸している現代で、あなたはどう行動し、どう感じて生きるだろう。


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