ポスト贅沢貧乏

森鴎外の娘の、森茉莉という女性が書いた「贅沢貧乏」というエッセイを今読んでいます。読み終わってはいません。読んでいる途中です。

彼女は森鴎外に、寵愛に寵愛を重ねられて幼少を育ってきた筋金入りのお嬢様育ちの女性なのですが、お嬢様育ちすぎて父を亡くした後も、何も社会生活に必要な技術が身についてないまま、だけども自己肯定感はすごぶる高いまま、悠々自適に人生を過ごした女性なのです。

なぜ読み終わってないのにこんな話をしているかというと、とても癖の強い文章で、咀嚼するのに非常に時間を要するためです。
けれども彼女の世界観には完全に取り憑かれていますのでちょっと語りたくなったという次第です。

私がこの人の世界観に魅了されている理由は、おこがましい話ですが、私と似通っているところが多いと感じるからです。
私は中流階級の育ちで、なにも家にお手伝いさんがいた環境とかで育ってきてはないのですが、なぜか身の回りのことがほとんどできません。
料理も掃除も、独自のスタイルでしかできないので、例えば服にシミができた時などはもうどうしようもないのです。
ユニクロのさほど高くない白いトップスでも、少しコーヒーをこぼしてしまった時には、クリーニングで何百円か出して直してもらうか、捨てるかの二択しか自分の中にはないのです。
風呂の掃除するくらいなら毎日銭湯に行きます。
重曹とかを使ってとか、ググったらすぐわかることでもググることをしない。
そういう生きるのに必要なライフハックはいつまで経っても自分で調べようとしないくせに、血液型占いやMBTIのことばかり一生懸命に目を酷使しながら調べている、社会不適合者なのです。

そしてそんな自分の社会的な不適合さを痛感させられる時間が私の日常生活では、幻想即興曲の楽譜の音符のように絶え間なく続いていくのです。。なにがやねん。。森茉莉さんの影響で何か高尚な感じで例えたかった結果がさっきの幻想即興曲です。自分の表現力の限界を感じてまたここで病む。

というかそもそも、元々自分は大して高尚な人間ではないのだ。
私の父親は森鴎外ではないのだ。
私は大阪の下町育ちの道楽に耽っている男と、手相占いの人に「あなたからは、どんどん人が離れていく線があります」と言われた、中国から来た変人の女から生まれたしがないベイビーだったのだ。
カエルの子はカエルでしかないのだ。
鳶は鷹を産むことは99.9%ないのだ。
そこをしっかりと自覚する必要がある。
なんとなく人生を飄々と生きてきて、今ちょっと自分は勘違いしている。
なんかちょっと自分にはあると思ってる。
ない。
なさすぎ。
だって今日韓国料理屋のアルバイトで、震えながらお客さんの前でサムギョプサルを切っていたじゃないか。

韓国料理屋のバイトを月に二、三回しているのですが、
ただそのバイト先の人達と喋るのが好きだっていう理由だけで家から足を動かしてわざわざそのお店に行こうと思うだけで、中で行っていることは私にとっては拷問以外の何者でもありません。
まずサムギョプサルを焼くということができない。ガスボンベがいつか爆発しそうで怖い。生ビール入れる時いつか爆発しそうで怖い。シャンディガフとか複雑なカクテルとかを作れない。これに関しては生ビールを何か別のものと混ぜて飲もうという人様の魂胆がそもそも分からない。
食洗機が重くて持てない。
作り笑顔ができない。世間話ができない。グラス片手に「最近難波で飲んでないんですか?」とかをサラッと人に言えない。
大きい声でいらっしゃいませと言えない。

そうだ私は本屋とか靴屋とか静かな場所でしか働いてはいけない人種なのだ。
ただでさえ不適合な人間だから、一度繋がった縁は大事にしたい。ただそれだけの理由で月に何回かこの酷く険しい修行をしているのですが、この修行の度に、帰り道夜空を仰ぎながらエレファントカシマシを聴く程度じゃ全く収まらない程の絶望感を感じています。

まあ、落ち着いていこか。。いつかなんとかなるか。。これでいいのだ。。

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