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流行を古典化すること

流行しているものに関して、注意を払いすぎてしまう場面がある。

この現象は、単に流行っているものや、それらばかりを好む衆を小馬鹿にすることで自分はそうでないのだと思いたいような意識だとばかり思っていたが、近日よりしっくりくる解釈を発見した。

結論を急ぐと、『新しいモノ自体にも、それを見る自分の考察にも風化が必要』ということだ。

流行しているものは、流行しているという前提がある以上、この魅力に見えるものが色眼鏡による一時的なものであると看破することは難しい。

流行しているので良く見えてしまっているのが上に指した衆なのであるとしたら、その後に記した天邪鬼な考えは、流行しているので悪く見えるという色眼鏡の色が補色へ変わっているだけであって、色眼鏡自体を外して評価できている訳ではない。

手放しに評価しても良いことを感じていたとしても、色眼鏡の効果かもと感じてしまうなど埒があかず意見が風化しない。

少し時間を置き、まだ同じように魅力を感じるかどうか、余計な感情が風化して残った純粋な感情が出てくるのを待たないといけない。

つまりは、それ自体にどんなに好意的な感情を持ったとしても、その流行の最中で、古典的に評価されているものと同等の高い(逆も然り)評価を下すなどという軽々しいことができないのだ。

流行しているものなど、そのもの自体だって変わる。
形ある作品であればそれが変わることはないが、周りへ与える性質が少なからず変わる。


そんなこんなで、風化の”ふ”の字も通過していないような事象について、全部知ったような語り口をすることがにどうしても抵抗がある。というだけの発見だ。今日は疲れたのでこれで終わり。




追記、これにて、自分が好きかどうかわからないが関心がある、置き所に迷っていた凡ゆるもの(人、ファッション、音楽、学問など広く)について、「保留している」「バッファを持って観察している」という表現で腑に落ちた。

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