時効につき公開した内省的な日記

自分用の日記!!!
を、時効につき、公開した(20230711)

....


物心がついてから怒ったことが一度もないと言っても過言ではない、過言ではあるけれどほとんどない私だけれど、つい最近底知れない怒りあるいは悲しみに襲われる出来事があった。

近日までは自分と真正面から対面して腰を据えて戦い将来のことや自分のすべきことについて考えることに精魂を注いでいたが、その出来事によって私の波長は乱れ、過ぎ去った後も定期的に感情が昂る。

セルフコントロールがまだまだ未熟だと思い知らされる。

俗に怒りの対象となる事象は、私の場合、背景なり系譜を考えることでその根を想像し、悲しみや共感に繋がる。保護犬が人間を警戒して噛み付くことに怒りを覚えないことと似ている。

怒りが表にでるというのは、突発的な感情でしかない。それを少しの間抑えることが叶えば、大凡の場合、外に現れることはない。それは分解されるとおよそ悲しみに変わる。こうした長く尾を引く痛みは久しぶりで、向き合うことにも疲弊してきてしまった。

私は強い、強い、と思いたいけれど、私がいくら強くあろうとしても、周りもまた強くなければ瞬時に打ち砕かれる瞬間がある。それが繰り返された時、向き合うことの限界が来る。その時は、自分が壊れる前に、そこの場所から逃げなければいけない時なのだと思う。ただ、もう既に壊れてるかもしれない。

この痛みがこんなにも底知れないことは、おそらく私にしかわからないし、人に話すことはしない。外部に助けを求めることができることと、できないことがあることを、わたしは知っている。今回は、きっとそれはできない。

おそらくこれを乗り超えたとき、私は大きく成長しているんだと思う。どんなことがあっても、一人で立って進める人間に近づいていると思う。近づいていてほしい。

一人で立つ、ということは一人暮らしをしているとか、親と離れているかとか、そんなことではない。自分の心とどれだけ向き合い、解き明かせたか。自分の機嫌の取り方がどのくらいわかっているか。自分の一時的な欲望と人生を通した望みを天秤にかけどれだけ納得できる選択ができるようになったか。それが一人で立てているかどうかなのだと思う。

私はまだ一人で立てているとは言えない。しかし、家族以外の他人に頼ることはしなくても生きていけるようには育ったという自負がある。それが友達であった方がよかったかもしれないとも思うけれど、私は友達に迷惑をかけると思うことをどうしても、どうしてもしたくない。迷惑をかけられることはある程度は構わないが、自分が迷惑をかけるのが本当に許せない。それならば自分で抱え込みたいと思う。言い換えると、プライドが高いとか、自分への理想が実態に見合ってないとか、自分を開示できていないとか、もしかしたらそういうことなのかもしれない。故にとてつもなく人に迷惑をかけている。

人の振り見て我が振り直せ、というのはまさに、と思う。今は、自分を見つめるいい機会なのだと思う。自分はこの機会でどうやって強い人間になるのか、自分がいま大切にしたいものはなんなのか。自分はどれだけ自分で立てているのか。頑張る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?